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現キリスト教は 愛の成長する秩序があるか?

1 :名無しさん@3周年:04/02/05 18:11
 教会の伝承に生きることによって、聖書の意味が明らかになると
カトリックが考えるのとは対照的に、プロテスタントは聖書から始め
ない信仰は偽りであるかのように主張する。しかし、聖書に向かう
アプローチの違いはキリスト教問題の本質ではない。
 カトリックであれば教会生活、プロテスタントであれば個人の
信仰生活に愛の成長する秩序が満ちているかどうかが問題なわけだ。
 神への愛と人への愛、その人格的な倫理の代わりに絶対他律的で
偽善的な律法倫理の実践を信徒に強要され、愛の成長において窒息
させられているような教会生活や信徒生活はないだろうか?今の
キリスト教に本当に愛の成長する秩序が、信徒を取り囲むすべてに
満ち溢れているだろうか?教会生活にあってそれはどうだろう?
信徒生活にあってそれはどうだろう?カトリック、プロテスタント
の別なく、忌憚のない意見交換がなされることを期待している。

106 :名無しさん@3周年:04/03/01 22:25
【116 隣人愛は正義にとってどのような意義を有するか?】
●隣人愛は(1)正義の代用となるのではなく、正義を前提とする(2)正義が
課する責務の忠実な遂行へと動かす(3)とくに正義ではまにあわないところに
おいてその力を発揮する。

 ピオ十一世(回勅Quadraesimo Anno,1931.5.15「社会秩序について」4)「……
 立法によってあまりにもしばしば見過ごされ、時として是認さえされているところの、
 正義にたいする背反を自らのマントをもって覆うことが、あたかも隣人愛の仕事で
 あるとでも言うかのように」。

 ピオ十一世(回勅Quadraesimo Anno,1931.5.15「社会秩序について」137)
 「したがって、ひたすら正義、それも交換正義だけの確立を念じて、愛の協力を
 高慢にも斥けるところの思慮のたりない改革者は、すべて大きな誤りにおちいって
 いる。たしかに愛は、当然なければならないのに否定された正義の代用品とは
 なりえない。だがひとが正義にしたがって確保すべきものをすべて確保した、
 まさにそのときに、いつでも愛にとっての広い領域がのこされている。正義は
 それがいかに忠実に実行される場合にも、世界から社会的な対立の原因を除き去る
 ことができるだけで、人々の心を内面的に結びつけることはできない。ところが、
 成員の間の内的な心の結びつきこそ、社会平和の確保、ならびに人々の間の協力の
 推進のための、すべての組織にとっての確実な基礎なのである」。

107 :名無しさん@3周年:04/03/01 22:26
 ビオ十一世(回勅Divini Redemptoris,1937.3.19「無神論的共産主義に反対して」;
 Marmy,Emil.Mensch und Gemeinschaft in christlicher Schau,Paulusdruckerei,
 Freiburg,1832年から1944年にいたる教皇文書を収載 213 f)「だが愛は
 それが正義をも満足させているのでなければ、真の愛であるとはいえない。使徒
 パウロはこう教えている。隣人を愛する者は律法を完遂し、それを基礎づけている。
 けだし、姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ……などすべての掟は一つの
 言葉にまとめられる。すなわち、隣人をおのれのごとくに愛せよとの言葉に。
 このように使徒によればすべての義務は、真の愛という一つの掟に帰せられるので
 あり、たとえば殺すなかれ、盗むなかれといった、厳格な正義によって要求される
 義務もそれにもれないのである。労働者にたいして、かれの厳密な権利に属する
 ところの賃銀を与えないような愛は、愛ではなく空虚な言葉にすぎず、空ろなみせ
 かけの愛にすぎない」。

 ピオ十二世(回勅Summi Pontificatus,1936.10.20「人類の宗教的崩壊と宗教的再
 教育について」;Marmy,Emil.Mensch und Gemeinschaft in christlicher Schau,
 Paulusdruckerei,Freiburg,1832年から1944年にいたる教皇文書を収載 1297)
 「こんにちひろまっているところの危険な諸誤謬のうちの第一のものは、
 われわれが人々の間の連帯性と愛との法則を忘却してしまっているということに
 存する。すなわちこの法則は、すべての人間の共同の起源ならびに(民族の如何を
 問わず)同一の理性的な本性によって命ぜられ、課せられたものであり、また
 イエズス・キリストが十字架の祭壇において罪深い人類のために天の父に捧げた、
 救いの犠牲によって命ぜられたものである」。

108 :名無しさん@3周年:04/03/01 22:29
1 隣人愛はその他の徳にその真のつまり最終的な価値を与える。といっても、善き
有徳な行動は愛なしには無価値であるとか、神がそのほかの徳の代用品となりうると
いうのではない。だが超自然的な倫理観はそもそも超自然的な神―隣人愛(唯一の徳
である!)によって超自然的な目的へと秩序づけられ、まさにそれによって完き意味
での徳となる。なぜなら、人間の行動ならびに人間を最終目的との関係において善い
ものたらしめることが、徳の本質に属するからである。隣人愛はわれわれを正義の
課する義務から解放し、正義を不要にし、その意義ならびに要請力を弱めるのだと
考えることは、粗雑で宿命的な誤謬である。まさにその反対が真実なのだ。愛は
あらゆる形における善を求める。しかるに法(正)は疑いもなく高い善である。法と
正義なしには、いかなる社会秩序もありえない。法の歪曲と侵害のあるところ、
もっとも容易に争いと不和とが生ずる。
〔例〕 負債を返済し、労働者に正しい賃銀を払う代りに慈善をすることは正しく
   ない。ひとは愛の動機からうそをついたり、盗んだりしてはならない。妊娠
   中絶(堕胎)や安楽死は、それ自体において正しくないから、たとい同情に
   発するもの、人情からのものであっても、決して行ってはならない。

2 隣人愛は人をうながして、かれが正義の命ずる義務をすべて忠実に果たすように
しむける。人は「愛からして」正しくありうるし、またあらねばならぬ。かれが
同朋を愛するがゆえに、また人々のうちに神とキリストを見出すがゆえに(そのゆえに
かれらにたいして、進んでかれらに属するものを確保し、与えるように全力をつくす
のである)。キリスト自身こうのべている。「自分が人々にこうしてもらいたいと
欲すること、そのことをかれらにたいしてもなせ」(マタイ7・12)。
 そのほか、愛は社会正義を最後のものと解するのではない。なぜなら自然および
創造主の意思にかなうような状態をつくりだすことが社会正義の義務であり、愛は
このような状態が実現され保障されることに最大の関心を有するからである。

109 :名無しさん@3周年:04/03/01 22:29
3 正義がつつみ、秩序づけるのは特定の諸関係、つまり法的な諸関係のみである。
この場合正義はただ事実を考慮に入れることができるのみである。なぜならそれは
人々の間においておいめが均等なものとなるよう、あるいは均等なものが回復され
るよう、配慮することができるのみであるから。それが緊急な場合を考慮に入れる
のは、それらに一定のおいめ(当然帰すべきもの)が依存しているかぎりにおいて
である(負担の均等化が要求される場合における、一定の収入および財産を租税と
して収める義務、人口過剰の場合に一定の制限内で住居を徴用する可能性)。他面、
緊急事態や災害の救済は正義の役割ではなく、またそのようなことは可能でもない。
反対に、一面的およびかたくなに法の立場を固執する場合には、人々は冷酷かつ
鈍感となる。それゆえに人々の間には隣人愛が支配しなければならぬ、さもなくぱ
社会生活は堪えがたいものとなり、援助をもっとも必要とする人々、つまり貧困で
困窮にあえぐ人々が看過されるということになるであろう。
 隣人愛は正義が終るところに始る。愛が手をさしのべるのはまさに苦しんでいる
者、助けを必要とする者である。こうして愛は慈愛へと転ずるのである(問124)。
[注意]正義と愛との間の関係についてはつぎの二つのことがらに大いに注意し
なければならぬ。
(a) われわれはしばしばつぎのような表現を耳にする。「このことは正義からして
ではなく、ただ愛の立場から義務であるにすぎない」(たとえば貧しい者や、人生に
絶望している者を助けること、落胆者を力づけ、迷っている者に助言を与えること、
など)。このような言い方はしばしば、愛の立場からの責務はそれほどまじめに
とらなくてもよい、すくなくとも正義からする責務のようにはまじめにとらなくても
よい、との印象を与える(ただ愛に基づくもので、正義に基づくものではない、
との言い方は愛をほとんど無意味なことにしてしまうようなひびきを持つ)。
(T)それ自体において見るとき愛の義務は法の義務よりも高いものである――
  一般に後者をまず果たさなければならないとはいえ。義務の高さは徳の高さに
  ともなう。愛こそは第一、最大、そしてもっとも重要な徳である。

110 :名無しさん@3周年:04/03/01 22:30
(U)「愛による義務だけ」との表現は一般に責務の程度、困難さにではなく、
  ただ義務の種類にふれているのみであり、とくにそこで遂行さるべき回復(補償)
  が考慮に入れられている。法的な要求は契約の形をとることができ、事情に
  よっては提訴される。それを無視ないし違反する者は、不正を行う者であって、
  そのことについて責任を問われ、「告訴」されることも可能である。人は愛の
  しるしをふさわしいこと、あるいはさらに義務として期待することはできるが、
  それを怠る者はなんら不正をなす者ではなく、(法的に)それを遂行するよう
  強制されることもありえない――たとえかれが神の前においては重大なあやまち
  を犯しているにしても。
(b) 「愛を要求する権利」ないしは「愛の権利」なるものがあるだろうか?旧約も
新約も愛の掟をふくんでいる。このように愛は律法および服従の対象となることが
できる。だが、そのことによって愛が一種の権利になるのだろうか?
 掟の下に入ってくるのはいつも行為の遂行だけである。すなわち掟は神・隣人愛の
行為をなせと命ずる。また掟はなんびとが隣人であり、したがって愛をどこまでおし
ひろげなければならないかを示す。さいごに、掟は一般にどれほどの助力を与えるべき
かを規定できる。だがこれらのことはすべて愛の本質にふれるものではない。愛の
行為は、人がまさに愛の動機からして自由に欲し行動するところにのみ見出される。
或る人にたいして神と隣人を愛すべきだ、と何百回、何千回となく命令できる。だが
その人が愛の行為をなすのはただつぎの場合にかぎられる。すなわち、かれが内的な
自由な意思からして最高の善なる神に身をゆだね、同朋にたいして善くあろうと(
かれらのうちにおいて神とキリストに出会うがゆえに)欲する場合。愛の業もまた
つねにその固有の性質、つまり、内的な、強制されたものではなくて自由に与えられた
好意のしるしとしての性格、を保つ。愛によって聖化され、栄光あるものとされ、
補足さた権利というものはありうるが、愛の権利というものはない。愛の義務は
法的義務よりも、より先なる源泉、より高い位置を有し、またより強度のものである。

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