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現キリスト教は 愛の成長する秩序があるか?

1 :名無しさん@3周年:04/02/05 18:11
 教会の伝承に生きることによって、聖書の意味が明らかになると
カトリックが考えるのとは対照的に、プロテスタントは聖書から始め
ない信仰は偽りであるかのように主張する。しかし、聖書に向かう
アプローチの違いはキリスト教問題の本質ではない。
 カトリックであれば教会生活、プロテスタントであれば個人の
信仰生活に愛の成長する秩序が満ちているかどうかが問題なわけだ。
 神への愛と人への愛、その人格的な倫理の代わりに絶対他律的で
偽善的な律法倫理の実践を信徒に強要され、愛の成長において窒息
させられているような教会生活や信徒生活はないだろうか?今の
キリスト教に本当に愛の成長する秩序が、信徒を取り囲むすべてに
満ち溢れているだろうか?教会生活にあってそれはどうだろう?
信徒生活にあってそれはどうだろう?カトリック、プロテスタント
の別なく、忌憚のない意見交換がなされることを期待している。

113 :名無しさん@3周年:04/03/01 23:28
【119 愛はどのような場合に秩序あるものといえるか?】
●愛は正しい基準によって導かれるときに、秩序あるものといえる。

 隣人愛はたしかにすべての人々を包みこむものであるが、だからといって万人を同じ
程度に、また同じ仕方で愛さなければならない(またそうしてよい)ということには
ならない。「愛の秩序」なるものが存在するのであって、この秩序の検討は重大である。
けだし実践上の諸決定はそれに依存するか、あるいは大いに影響をうけるのであるから。

1 愛の秩序について決定的な意味を持つのはつぎの三つの考慮である。
 (a) 隣人愛の価値、自然的な結びつき、助けの必要性。
 (b) 価値(諸善)の高さ。
 (c) それぞれの関心事の緊急性。
 愛の秩序は内的ならびに外的な行為、つまり善意ならびに善行にかかっている。いう
までもなく外的行為にたいしては、内的行為にたいするよりも、より厳密な限界が
ひかれる。

2 つぎの事実を認めなければならない。
 (a) 人はすべての人々を個別的に愛することはできない――その理由はまさに
  ほとんどの人を個人的にはまったく知らないということである。
 (b) 最大の善意をもっていても、人が助けることができるのはごく少数の人々のみ
  であり、助けたいと思う人々をすべて助けることはできないし、助けなければ
  ならないと承知している人々についても、いつも助けることができるわけではない。
  人間の意思と能力にはかぎりがあり、これにたいして神の意志と力は無限である。

114 :名無しさん@3周年:04/03/01 23:29
3 愛の秩序についてはつぎの諸原理があてはまる。
 (a) 愛の対象および動機は神自身、もしくは神的な善(bonum divinum)であるから、
  人間はより聖でありより神と一体化して生きるほど、またかれが恩寵と神の子たる
  の資格においてより成長すればするほど、それ自体においてより愛に値する者と
  なる。客観的にいってふさわしい愛の高さは、聖性の段階に基づくのである(人間
  としてのキリスト、聖母、さまざまの徳の充満に達した聖人達)。われわれは
  このように恩寵をうけ、高められた者にたいして神に与えられた豊かさおよび
  かれらにふさわしい栄誉をおしみなく悦び、望むのである。
 (B) 隣人愛はその主体的―情緒的な面についていえば、愛するもの自体に結びついて
  いる、つまり愛の自然的な動機ならびに責務に結びついている(身内、共同体、
  仲間、感謝の念)。われわれが自分に近い者、自分がもっとも緊密かつしっかりと
  結びついていると意識しているところの人々を、ほかの人々よりもより強く愛する
  ということは、決して誤りではなく、まったく正しいことなのである(夫婦愛、
  親子の愛、友愛)。
 (c) 時として重要なのは、隣人が(自然的もしくは超自然的な)共同体の内部で、
  共通善との関係において有する位置である。すなわち、全体にたいする考慮から
  して、つぎのことが示唆されもしくは義務となることすらある――すなわち共通善
  にとって不可欠の働きをなすところの人々にたいして特別の援助を与えることが…
  …たといこのような援助が身内もしくは身近の者から除外されるような場合にも。
 〔例〕 或る人が輸血によって、いずれも重大な死の危険にひんしている、病める
  兄弟もしくは病める司祭のいずれかを救う、という選択に直面しているとする。
  ところでかはつぎの理由からして司祭を救う決心をする。すなわち、今ここにおいて
  (たとえば戦争において、宗教迫害のさなかにおいて、もしくは布教地において)
  人々は司祭なしにはおれない、との理由からして。

115 :名無しさん@3周年:04/03/01 23:30
 (d) 価値の高低ならびに問題の緊急性は隣人愛にとってどうでもよいことではない。
  なぜなら隣人愛は無差別的に善へと向うべきではないし、まして自らの好むままに
  善について処置してゆくということはできないからである。困窮が大である場合
  には、より速やかに、またゆたかに助けを与えなければならぬ。霊的な問題はしば
  しばとくに速やかで効果的な援助を必要とする。精神的な価値は物質的な価値に
  優先せしめるべきである――危機にさいしてはしばしば第二次的なものとしなければ
  ならないが(学者にたいして、病人の世話をしたり、生計をたてるために肉体的な
  仕事に従事する、といったことのために、研究活動を一時中止することを義務づけ
  うる)。ただ、なんびとといえども倫理的な正しさに反して行動することは許され
  ない。人はその彼岸的・永遠的な救いに直接に違反すること、自然的および神的な
  道徳律と一致しないようなこと、を決してなすべきではない。キリスト教的な表現を
  用いるならば、隣人愛は罪、すなわち神に背くということを代価にして完うする
  ことはできない。とくにこの意味においてつぎの言葉が妥当する。「各人は自らに
  とっての隣人である。」すなわち、なんびとといえども自らの不死なる霊魂を代価に
  隣人の意にしたがったり、助けたりすることはできないのである。
  1 真の自己愛と隣人愛とが和解しえないような仕方で対立せしめられることはない。
  人は隣人のためにおおいなる犠牲をなすことによって、ないしは隣人のために多くの
  こと――たとえば祈りへの参加――を放棄することによってさえ(神の愛がかれを
  かりたててこのようなことをなさしめる)、かれは自己、つまり自らの霊魂の救いに
  奉仕し、自己に益あることをしているのである。けだし、正しい精神をもって行われた
  善は、すべて必然的にそれをなした者に帰ってくるからである。行為者はかれのすべて
  の善き行為によって第一かつ不可避的に完全にされ、価値ある者、豊かな者たらしめ
  られるのである。

116 :名無しさん@3周年:04/03/01 23:32
  [注意] 右にのべたことがらにてらして見るとき、個々の場合においてことがらは
  時おりきわめて複雑化しており、人はいかにして自らの義務を果すべきかについて
  疑いを持つことが可能であり、また慎重に考慮をめぐらさねばならぬ、ということは
  驚くにあたらない。この点についてNell−Breuningがつぎのように指摘
  しているのは正しい「われわれがこのような方法的―科学的な仕方で導きだしたところ
  の秩序ないし順序と同じものを、誤った教育を受けていない人は幸いにもその健全な
  人間理性をもって見出す――実際生活における大多数の場合について易々と、また
  重要なことがらについても自力で間違いなく」。われわれはこれにつぎのように付言
  しよう。誤った教育を受けていない人間および現実に隣人を愛し、この愛によって
  導かれている(すべての)者について同じことが言える。なぜならトマス・アクィナス
  が言っているように、有徳な人間は何らかのまったく根源的で間違いのない確実さを
  もって、当の徳にかかわりあるすべてのことについて判断するからである。かれは、
  かれが善つまり徳にたいして有する内的な親近性に基づいて、徳そのものをいかに
  実行にうつすべきかという仕方についての正しい感覚をも有するのである。すなわち、
  かれはすすんで、また適切に、徳のめざすところならびにその基準にしたがって決断
  を下すのである。

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