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現キリスト教は 愛の成長する秩序があるか?

1 :名無しさん@3周年:04/02/05 18:11
 教会の伝承に生きることによって、聖書の意味が明らかになると
カトリックが考えるのとは対照的に、プロテスタントは聖書から始め
ない信仰は偽りであるかのように主張する。しかし、聖書に向かう
アプローチの違いはキリスト教問題の本質ではない。
 カトリックであれば教会生活、プロテスタントであれば個人の
信仰生活に愛の成長する秩序が満ちているかどうかが問題なわけだ。
 神への愛と人への愛、その人格的な倫理の代わりに絶対他律的で
偽善的な律法倫理の実践を信徒に強要され、愛の成長において窒息
させられているような教会生活や信徒生活はないだろうか?今の
キリスト教に本当に愛の成長する秩序が、信徒を取り囲むすべてに
満ち溢れているだろうか?教会生活にあってそれはどうだろう?
信徒生活にあってそれはどうだろう?カトリック、プロテスタント
の別なく、忌憚のない意見交換がなされることを期待している。

92 :名無しさん@3周年:04/02/25 03:26
〓〓〓〓〓第五課 社会生活における愛〓〓〓〓〓

 社会生活が秩序あるふさわしい道にそって進められるためには、なんびとでも経験し
また認めなければならないことであるが、正義とならんで愛が必要である。ここでは
どのような愛が考えられているのか? それはどのように作用するのか? 正義とは
どのような関係にあるか?

93 :名無しさん@3周年:04/02/25 03:27
‖‖‖‖‖‖‖‖‖【序言】‖‖‖‖‖‖‖‖‖‖

1 「愛」という言葉は多くの意味を持っており、まずつぎのようなことがらを指す
ことができる。
 (a) すべての被造物に内在しており、そのものに適合した目的(善)、したがって
またそのものの本性に応じた完全性に到達するための、自然本性的な傾向ないしは衝動。
それゆえに、古代の英知は自然の「重み」(pondus)について語っている。すべての
ものはその完全性を追求(愛)し、平和をのぞむ(愛する)(聖アクグスチヌス)。
 (b) 感覚的な欲求能力が知覚された個別的善にたいして有する、第一の根源的な
働き、すなわち情念、ないし根本的情緒としての愛。感覚によって把えられたものは
直ちに感覚的欲求能力のうちに満足を生ぜしめるのである。
 (c) 意志が善にたいして有する傾きないし満足。意志と善との間の最初の出会い、
理性が意志にたいして善、つまり欲求に価するものとして提示するところのものへ
向う、意志の直接的な傾き。この点からすれば、愛はすべての追求、決定、行動の根拠
であり、始源であり不可避的な前提である。あこがれや悦び、いな拒否や羨望や憎しみ
もそこに根ざしている。愛はあらゆる目的の意図、目的のための手段について行われる
あらゆる選択に先立つものである。
[注意] これにつづく説明において、「愛」という言葉のこれ以外の意味が解明
される。ところで「自然の重み」として、またとりわけ情念の意味に解された愛が
社会生活にとっていかに重大(時として致命的!)であるとしても、倫理の領域に
おいて決定的なのは精神的・意志的な力および徳としての愛である――したがって、
精神的な認識にともない、さらに自分の側からこの精神的な認識をふたたび生命づけ、
豊かなものにするところの愛である。たしかに人間は自分が認識するものだけを
愛しうるのであるが、愛はかれをかりたてていよいよ深く認識(理解)せしめる
のである。なぜなら愛は自らの愛するものについてのたんに一般的ないしは表面的
な認識では満足せず、その個人的な秘密や遺言を知ろうとするからである。

94 :名無しさん@3周年:04/02/25 03:27
2 意志はその満足をつぎのものに向けることができる。
 (a) 事物。 なんらかの価値ある事物ないし事態が、それが必要不可欠であるか、
もしくは有用であるがゆえに、または或る人物の完全性に寄与するがゆえに、また
そのかぎりにおいて追求される(知識、徳、権力、勢威、富)。このように、問題
になるのはたんに物質的なものにかぎられない。
 (b) 人物。 或る他人、「汝」が意志の対象ないし目標となる。したがってこの
愛は精神的な本性における同等性、ないしはすくなくとも類似性を前提とし、人格
の間においてのみ成立することができる。或る人格にたいする愛のみが、本来的
かつまったき意味において、「愛」の名前に価する(人は動物を大事にできるが
愛することはできない)。このさいつぎのことがらに注意しなければならぬ。
(T) 他者の人格がそれ自体のゆえに愛される場合。愛する者は他者に善を欲する
  ――後者がそれに価するがゆえに――、そして愛する者は他者が完全であること
  (善、幸福)を見ようと欲し、またそのようにしようと欲する。これは好意の愛
  であり、功利的でない没我的な愛である。
(U) 他者の人格が、愛する者自身の利害から愛される場合。愛する者は他者が
  自分に役立ち、利益をもたらすかぎりにおいて、後者に結びついており、愛する
  者は他者からなんらかのことがらを希望ないし期待しているがゆえに、その者と
  結合している。これは自己追求的、功利的、利己的な愛である(必ずしも悪い
  意味での利己主義的愛ではない)。
(V) 二人あるいはそれ以上の人格が相互に好意をもって出会うときには、その愛
  は友愛的な愛となる。真の友愛はつぎのことを特徴とする――すなわち、各人が
  完全に他者に奉仕しようと欲し、各人が他者に自己と自己のものとをまったき、
  自由な献身の精神をもって与えること(一人は他の者の「自我」となる、「与え
  る」愛)。この友愛的な愛は当然つぎの場合に最高潮に達する。すなわち、
  一人がこのような献身を遂行し、他者からこのような献身をうけとる場合に――
  しかもそのさいなんら内的な豊かさというものを生ぜしめることなしに(自らが
  恩寵を注いだ被造物にたいする神の愛)。

95 :名無しさん@3周年:04/02/25 03:35
3 人々の間にはいくつかの(相互的な)愛の形態がある。
(a) まったく人格的な愛情(結婚、家族、人格的な友愛)。動機となるのは直接的
かつ専ら他者の人格――その人格に固有の長所もしくは自然的な結びつきに基づいて
――である。この愛は愛する者自身に最高の収穫をもたらすのみでなく、その輝きと
影響の及ぶところ、多くの人々、場合によっては或る諸民族や時代全体にとって最大
の意義を持ち、最大の恵みをもたらすものとなりうるのである。

(b) 普遍的な人間愛。その動機は人間本性、すなわち本質、目的、課題における
自然本性的な一致と平等である。すなわち、一人は他を(すべての者を)、後者が
人間であるがゆえに、また人間であるかぎりにおいて愛する。この愛は自然的・
社会 的な正義の前提である(この正義は広い領域にわたってこの愛の要求を実現
しなければならない――すなわち、人間本性の善がおいめとしての性格を有する場合
にはいつでも)。ところでこのことはまさに、もっとも根源的で高貴な自然本性の
善についていえる(問71)。だが普遍的な人間愛は、キリスト教的な隣人愛の名
の下に行われるのではないところの、多くの慈善事業にさいして推進力となっている
(福祉事業、社会奉仕)。この愛は社会生活において疑いもなくきわめて高い意義を
有する。

96 :名無しさん@3周年:04/02/25 03:35
(c) 社会的な愛。或る特定の共同体の諸メンバー間の愛、つまり統一的な目的として
の共通善、ないしは同じ共同体に共同的に属するということに基づく愛。この愛の
対象は共同体の福祉、まり共同体に秩序づけられており、ともどもに共同体のうちに
生活しているすべてのメンバーの福祉、である。追求に価する目的としての共通善に
たいする愛は、共通善をおいめ、つまり法の基礎とみなすところの、社会正義に先行
する。社会的な愛が共同体へと豊かな恵みをもたらす(この愛が支配し、影響力を
及ぼす場合に)ということについては、あらためて指摘するまでもないであろう。
なぜならめんばーが共通善を愛する、つまり善として進んで肯定し追求すればする
ほど、共同体にたいする義務を進んでより熱心に実践するようになり、ますます相互
に一体化してゆくからである。

(d) キリスト教的隣人愛。これは本質的に異なった高い、超自然的な救済および
恩寵の秩序に属する。これこそ救われたる世界のうちにおける根本的な力であり、
個人と共同体の生命における根本的な力である。これについては二、三のことを
注意しておく必要がある。

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