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現キリスト教は 愛の成長する秩序があるか?

1 :名無しさん@3周年:04/02/05 18:11
 教会の伝承に生きることによって、聖書の意味が明らかになると
カトリックが考えるのとは対照的に、プロテスタントは聖書から始め
ない信仰は偽りであるかのように主張する。しかし、聖書に向かう
アプローチの違いはキリスト教問題の本質ではない。
 カトリックであれば教会生活、プロテスタントであれば個人の
信仰生活に愛の成長する秩序が満ちているかどうかが問題なわけだ。
 神への愛と人への愛、その人格的な倫理の代わりに絶対他律的で
偽善的な律法倫理の実践を信徒に強要され、愛の成長において窒息
させられているような教会生活や信徒生活はないだろうか?今の
キリスト教に本当に愛の成長する秩序が、信徒を取り囲むすべてに
満ち溢れているだろうか?教会生活にあってそれはどうだろう?
信徒生活にあってそれはどうだろう?カトリック、プロテスタント
の別なく、忌憚のない意見交換がなされることを期待している。

172 :名無しさん@3周年:04/03/08 23:42
V キリスト教的倫理・社会思想は、本書においてものべられている通り、古代の諸
教父にはじまり、中世・近世のスコラ学者を通じて現代にいたる、不断の努力において
発展せしめられ、豊かにされてきた。本書もこの長い伝統が生んだ成果の一つであると
言えよう。わが国においては、最近スコラ的ないしトマス的自然法思想にたいする関心が
増大し、それにともなって、右の思想がその一部をなしているところの、キリスト教的
倫理・社会思想にたいしても或る程度注意が向けられるようになってきている。本訳書が
この思想にたいする関心と理解を深めるのにいささかなりとも役立つところがあれば、
幸いであると思う。

W 本訳書が刊行のはこびとなるまでにはつぎの方々にいろいろの点でお世話になった。
この機会にあつく御礼を申しあげたい。南山大学アルベルト・ボールド神父、京都・聖
トマス学院パウロ・エグリ神父、エンデルレ書店ルーベルト・エンデルレ氏および
山田剛太郎氏。とくにエグリ神父には校正刷を丹念にお読み下さり、数々のご教示を
賜わった。本訳書が多くの誤訳を免れているとすれば、それはひとえに同神父のおかげ
である。

  昭和三十七年六月
                            訳  者
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 以上、引用をおわります。

173 :名無しさん@3周年:04/03/11 03:50
 引用文は読みにくかったり意味が取りにくかったりするところも書籍の記載どおり
に変換したつもりです。「〜派、」→「〜は、」とすべき変換間違いなどが自分でも
見つけましたが、意味の取れない文章や色々な不明点かありましたら、すぐにご指摘
下さるようにお願いします。
 この度の書き込みはこの書き込みのみで失礼します。では、皆さんヨロシクどうぞ。

174 :名無しさん@3周年:04/03/12 23:17

漢字が多すぎ



175 :名無しさん@3周年:04/03/13 01:47
>漢字が多すぎ

 そうですか?引用文は、自分なら漢字にするところをひらがなにしてあったり、
例えば「かれは」とか「われわれ」とか「うちかつ」とかはひらがなですが普通は
漢字で表記するような気がします。

176 :名無しさん@3周年:04/03/16 06:13
 問題点の整理や、聖書から問題点を指摘することや引用することをまだしていません。
今後はそれらに触れてゆきたいと思います。今回の書き込みは、上げついでに予告だけ。

177 :名無しさん@3周年:04/03/16 17:20
キリスト教に対する批判に対してはすぐ「キリスト教を信じないものは滅びる」という脅しになる。この板を読んでるとかなりまともなクリスチャンでもこうなるパターンが多い感じがする。

これではキリスト教の愛の教えと矛盾していて、それさえもいいかんげんなものになってしまう。

まともな人間ならこんな明白な論理矛盾を認める事は不可能だろう。

キリスト教内部でこの問題を解決できない限り日本でキリスト教がこれ以上発展することはないのではないか。

178 :名無しさん@3周年:04/03/16 17:33
>>177
ここ数年は、まともなキリスト教批判がないからなあ…

179 :名無しさん@3周年:04/03/20 02:00
>>177
 キリスト教の愛の教え(ヨハネ15:12etc)とは、キリストの命じた掟のみをまもる
というのではなく、キリストと一体になり、キリストと共に愛に生きることと
されていますから、一面では「キリスト教を信じないものは滅びる」という発言は
「論理矛盾」ではないと思います。キリストを認識してもなおキリストを否定する
ならばその人は真の愛にあるか?(1ヨハネ2:18-23 ローマ10:9 1コリント12:3 etc.)という
疑問を持てる点についてキリスト教的にはそこに多少非難の余地があると言える
のです。
 しかし、彼らは愛が動機となって布教しているのではないでしょう。今後、この
スレでも問題点の一つとして取り上げようと思っていた部分でもあるのですが、
倫理の点では120の2項(>>117)にある愛ではなく自分の利益や「再保障」への
望みによる発言である可能性を否定できませんね。しかし、逆に先にも述べたように
その発言は、愛に基づいて一面の真理を伝えている可能性を否定しきれません。その
点も考慮して実際には場面ごとに判断する必要があると思います。

>>178
 「ここ数年」というあなたの言葉が気になります。以前はどんなまともな批判があった
のでしょう?

180 :名無しさん@3周年:04/03/23 23:53
ここ数日で、すっかりスレッドが下がってしまいました。少し書き込みします。

 神が、我々と共にある悦びというのは、どんなものなのでしょうか?自分はそれが
今のキリスト教に欠けていたり足りなかったり奪われているかもしれないと思います。
悦びの敵が不機嫌や不満であるからといって、それらの感情を押し殺した所に真の悦び
があるわけではありません。信者に内的な平和がないということは、日頃は気付きたく
ないことであり、気付きにくいことでもあると思います。
 先に挙げた本の引用から色々な示唆が汲み取れます。内的平和によらず、悦びのない
教会や信仰生活環境、あなたは経験ないでしょうか?

123
『人が十分な力をそなえている場合には、外的な無秩序や誘惑にもかかわらず内的な
平和を保つことができる(迫害、牢獄における聖人、夫のかたくなさ、「気まぐれ」
にたえてゆく妻、患者のたえまない不平やぐちをしのぶ看護婦)。内的な平和を有し
ない人間も、多くのことを一致してやることはできるが、つまり「仲良く」やって
ゆくことはできるが、人間的に善い、ふかい、そしてエレガントな仕方で共同生活を
いとなむことはできない。かれらの間の協調は真に堅固な基礎を欠いているので
あって、それは利害、慣習、強制ないし外的実力によって保たれているのである。』

181 :名無しさん@3周年:04/03/23 23:54
124 4 (a)(b)(c)
『悦びにとっての本来の敵は悲しみではなく、むしろ不機嫌や不満(悪い気分、
不機嫌、憤懣など)である。それはまわりにいる者をまひさせ、時としては破壊的な
作用をする。またそれは悦びの表現もしくはその感情の芽をすら、すぐにつみとって
しまう。とくに権威の保持者がこのような態度をとるとき、それは邪悪で堪えがたい
ものとなる。』
『邪推や根拠のない疑念、不信、うらみ、ねたみなどが人々の間の善い関係を破壊
しているところでは、真の悦びは生じえない。それらすべては社会生活のうちに
動揺と疑いを持ちこむ。それは人々をしてお互いに注意深い態度をとらせ、用心深く
ひかえめにふるまい、お互いに心を閉じさせる。』
『ごく一般的にいって、さまざまの形をとって現れるところの利己主義は(いうまでも
なく、とくにそれが当の人間をまったく支配する場合)悦びに対立する。ものおしみ
する人間ややかましい人間、権勢欲にとりつかれた者や快楽におぼれている者、なま
け者や心の狭い者、これらの者は自分および他人の生活を辛いものにする。かれらの
悦びはたんにみせかけのものであるか、他の人々の悲嘆や良心の不安を代価にかちえ
られたものである。』

182 :神様もナルシスト?:04/03/25 13:25
この世に無償の愛などない。

神でさえ信仰という見返りを求めている。

愛とはすべて自己愛が企てた戦略である。

183 :名無しさん@3周年:04/03/25 21:37
キリスト教(ユダヤ教、イスラーム含む)の神はねたみの神ですから。

184 :名無しさん@3周年:04/03/29 00:28
>>182
 命を投げ出す行為、というものがこの世に確かにあると思います。
逆に言えば、あなたが指摘する「無償の愛などない」ということの意味は、
人は命を投げ出す決断や行為を決してしないのだという主張であると受け止め
ますがよろしいでしょうか?
 しかし、戦争や戦災の時に乳飲み子を抱えた親が命を張って我が子を守る
姿は良く知られた無私の親の子に対する愛を告げます。また、アフガニスタンの
地で医療活動に従事した中村医師は次のような体験談を語ります。
 一日がかりでやってくる患者さんを含め、診られる患者の数には限りがあり、
どうしても今日はここまでということになる中、石が飛んで来たりミサイルが
飛んで来て彼の準スタッフ2名が殉職した時の彼の対応のエピソードです。
『アフガンの風習では、2名殺されたら2名殺さないと恥になってしまうんですね。
で、スタッフが殺気立って反撃をしようとした。私は「発砲するな」と言った。
びっくりして「先生、皆殺しになってもですか?」と聞く。私は「皆殺しになっても
発砲しちゃいかん」と答えた。「たかが十八人の我々が死んでも他の人が来て、
何万人も助かる。けれど、ここで発砲すればすべてが台無しになる」。部族長が
翌日謝りに来ました。私は彼に「これは一体どういうことか。私たちは一所懸命
やってきたつもりだ。2名首を出せ、でなければ、この診療所をあなたたちのもの
として守ってくれ」と声を荒げて言いました。すると族長は「すみません、この
診療所は我々のものです。守ります」と言ってくれました。』

 以上のようなやり取り、決断と意志表示は、あなたの言う「無償の愛などない」
ということに反して現実に起こっていることですし、そうした個別的具体的な
一つ一つの人間の営みが、正義や愛を我々に思い起こさせる契機となっている
のではないかと思います。

>>183
 神はねたむほどに我々人間を愛する方なのだというふうに意味をお取り下さいな。

185 :名無しさん@3周年:04/03/31 00:06
 >>184で書き込んだように、命がけで守るものが人間にはあるのです。命がいかに
小さい者であろうともその命を助けるために自分の命を投げ出してゆく行為、これは
「愛」を実践していることであると自分は考えます。ですから、そういう愛の実践に
よって生きる人一人一人は、キリスト教の教えに触れていなくともイエスをまだ信じて
はいない場合でも、命の与えぬしなる神にきっと天国へと導き入れられることでしょう。
 下手に複雑な道徳心をもって、善悪の判断に終始する者であるよりは、ただ患者を
助けることに一念集中する医師の方が、よほど神の我々への思いに呼応しているのだと
感じます。アフガニスタンでは宗教上の理由から女性はブルカという顔の覆いをして
います。女性が男性の前でうかつに肌を晒すことはできないのです。そのために中村
医師の一団は女性医師を派遣して女性患者のケアに万全を尽くすよう努力をしている
のですが、こうしたアフガニスタンの風習などに対しても「良い悪い」で判断をしよう
とする欧米人の存在に触れ、次のように意見を述べておられます。
《「こうした習慣を欧米人はすぐ「いい、悪い」で判断します。それで、現地の人間と
諍いを起こし、国外追放になる。追放された人間は国際会議で訴え、喝采を受ける。
しかし、自分の思想さえ満足されれば、それでいいのか?残された患者さんはいったい
どうなるのか?だから、私たちは一切文化・習慣批判をしないことにしている。私たちは
ただ患者を助ける、ということだけを考えています。》

186 :名無しさん@3周年:04/03/31 00:07
 こうしたことは、医師が患者に対する時だけでなく、乳飲み子を持つ母親が、戦火から
我が子を守ろうとする姿などに共通するものです。共通しているのは、命に対してその
大小を問わず限りない尊敬と熱意で自分の命を投げ打ってでも守り抜こうとする姿勢です。
他者の小さな命の前に自分の命をも投げ出す尊さを見ているのです。その時の彼らは、
無意識ではあっても世間的な代償を求めてなどいません。まさに意図せずにも神の存在
を確信し、愛の行為に身をまかせているのではないかと推測します。
 キリスト教が教える愛の教えも命の与えぬしであり、愛そのものである神に信頼する
その信仰をもとに、隣人を自分と同じように愛しなさいという極めてシンプルな教えの
体系が柱となっています。そして、愛を知る者ならばきっとそのキリストの教えに共感
するであろうことは容易に想像できます。

187 :名無しさん@3周年:04/04/13 05:39
 最近の書き込みで、非常に注意が必要なものを見受けました。
ある方が、夢や幻で聖人の招きがあったと確信し、教会に戻るかどうかを思案して
いるというものです。
 幻視や夢の内容から信仰をはじめるのは、ゆくゆくカトリックであれ、他のキリスト教会であれ、その教会の内部を破壊する可能性があります。現実に生きていて、
信仰のある者の招きや愛に感じてまた信仰生活に戻るようにするのが本道です。
 聖人というのは、教会に認められた人であってもそれはイエス・キリスト自身
ではなく、「死者」のうちの一人です。聖書ではもともと旧約聖書で死者に伺い
を立てることが厳禁されています(申命記18章11節)。イエス・キリストは
「死んだ者は死んだ者に任せよ」マタイ8章22節・ルカ9章60節とおっしゃいます。
コロサイ2章18節
《偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。
こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、》
 とパウロが警告する者からはじめる信仰生活を歩んではいけないのであると
お伝えしたいと思います。

188 :名無しさん@3周年:04/04/13 06:42
 幻で、信憑性が有り得るのは神ご自身が現れた場合で、それが預言者と
呼ばれる立場の人に対する神の働きかけであると旧約聖書で述べられます。
民数記12章6節
《主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者が
いれば 主なるわたしは幻によって自らを示し 夢によって彼に語る。》

 ですから、幻によって信仰を試す者には注意をしてください。それが、
聖人や天使の形や表明をする者であればなおさら注意して惑わされないことが
ひつようなのではないでしょうか?

189 :くしこ:04/04/13 06:45
>>183妬みの神をうまく操縦する方法がユダヤ・キリスト教信仰
なんだと思いますが、逆に操縦されてしまってますからね。
それが非常に痛いかな・・・と思います。

190 :名無しさん@3周年:04/04/17 13:01
http://www.morrisseymusic.com/
日本ホーリネス教団




191 :名無しさん@3周年:04/05/01 15:11
>>189
>>190
 過疎化しているこのスレッドに書き込みどうも。

 

192 :名無しさん@3周年:04/05/11 02:36
 最近、書き込みサボっていて申し訳ありません。また、そのうち・・・

193 :名無しさん@3周年:04/05/30 21:28 ID:gB2/p7Tq
 カトリックが危ないという点で、いくつか話をしたいと思います。
 この2chでもネタのようにしてマリア崇敬への非難がされている光景をよく
見かけるのですが、マリア崇敬の歴史的経過と聖書との比較において、マリア
崇敬の現状は聖書の警告面を着実に歩んでいるとしか思えない部分があります。
カトリックにいてもあまりに狭き道としてしか正統的キリスト教の道が残されて
いないのではないかと訝る者です、自分は。少しずつこの点を明らかにしたいと
考えているのですが、カトリックの人もこれからキリスト教を学ぼうとする人も
今後書き込みすることについてよくご自身で確認することが肝要であると思います。
 では、最近サボり過ぎていましたが、意を決して自分の考えを述べて行こうと
思います。随時質問は受け付けますからキリスト教の信者の方、特にカトリック
信者の方はよく事の真偽を見定めつつ投稿文をお読みいただけたら幸いです。

194 :名無しさん@3周年:04/05/30 21:43 ID:gB2/p7Tq
 まず、マリア崇敬は、新約聖書から正統であると言えるのかどうかですが、次の点から、マリアは賛美され喜ばしいキリストの母として認識されます。
●ルカ福音書1章41-43節
《マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で
祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主の
お母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。》
●ルカ福音書1章48節[エリサベトの言葉にマリアが答える形で]
《身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう。》
●ヨハネ福音書19章26−27節
《イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、
御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。
「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの
母を自分の家に引き取った。》

 つまり、聖霊に満たされたエリサベトはマリアを賛美します。マリア自身
自分のことを後の世の人が幸いな者というであろうことを返答します。この
ことがマリア崇敬の意味である場合マリアは幸いな方として賛美されるのが
当然の崇敬のあり方であると言えます。また、イエスが十字架上で愛する弟子に母マリアを託されたようにイエスに愛されるべきキリスト者はいつも
その母マリアを我々の母のごとくに崇敬することが正しい態度であると言えるのです。さらに、イエス公生活初の奇跡が、カナの婚礼の席上、母マリア
の促しに応じて瓶の水をぶどう酒に変えることに始まる(ヨハネ2章3−10節)
ことからマリアは大切な人であることがわかります。

195 :日本政府はなにをやってもだめだね:04/05/30 21:44 ID:Y4pFyoOT
東シナ海の日中境界線海域で中国側による新たな天然ガス採掘施設の建設が明らかになった28日、
自民党本部で「海洋権益に関するワーキングチーム」(武見敬三座長)の会合が開かれ、
政府に厳しい批判が集中した。
海底に眠る膨大な天然資源をみすみす中国に奪われる可能性がありながら、有効な対策を持たない政府。
官庁間で責任をなすり合う構図も見え隠れし、議員からは「権益を守る意識があるのか」と怒号が飛んだ。

午前8時、非公開で始まった会合には衆参国会議員32人が集まった。
説明のために呼ばれた内閣官房や外務、防衛、資源エネルギーなど各省庁の担当者に、
議員から厳しい叱責が浴びせられた。
「10年前から中国は調査しているのに、日本はなぜやらなかったのか」
「中国に天然資源をすべて持っていかれていいのか」。
興奮した声が部屋の外まで聞こえてきた。(中略)
政府批判の先頭に立ったのは、桝添要一参議院員。
ガス田開発を伝える28日付の本紙報道を取り上げ
「海底資源が日中中間線の日本側にあっても、調査もしていなければ所有権を主張できない。
中国が採掘を始めれば、資源を全部持って行かれる。どこの役所が最初に問題提起するのか」。
しかし、各省庁の説明は責任のなすり合いとも言える内容だ。
「(外務省が)中間線を確定させないと、試掘はできない」(エネルギー庁)
「中国側に抗議しようにも、根拠となる(エネ庁の)資源データがない」(外務省)
桝添議員は「内閣官房も、外務省も自分から動こうとしない。まったく無責任だ」と憤慨する。
元防衛庁長官の玉沢徳一郎衆院議員は「外務省は中国と話し合いをしていると言うが、全然進んでいない。
我が国も独自に採掘するという判断をしないといけない」と強硬論を展開していた。

196 :名無しさん@3周年:04/05/30 21:59 ID:gB2/p7Tq
>>195
 政府がだめなのを自分に振らないように。


197 :害基地デンパ@くしこ:04/05/30 22:04 ID:+GEGVHym
マリア崇敬には異教的要素も含まれているという批判もあります。
なぜ、異教的要素が加わったのかという考察も必要です。
民衆の求めに応じた。この説は一見正確なようにも見えます。

しかし、キリスト教はユダヤ人のためだけのものではないという
定義が存在します。これは非常に大事な考察ですね。
聖書で描かれるマリアとイエスの関係は、
イシスとホルスの関係に似ています。
これは大いに利用する価値があるわけです。
イシスとホルスは架空だが、マリアとイエスは実在したからです。
一種の雛型となっているように読むことも出来ます。

もし、イエスの誕生が聖書どおりならば、当時の改宗者たちが
再発見するのは容易いことだったと思います。

198 :名無しさん@3周年:04/05/30 22:04 ID:zYjRATki
マスゾエなんて、リベラルだから言えるんだよな。

199 :194のつづき:04/05/30 22:12 ID:gB2/p7Tq
 マリア崇敬が危ない理由は、歴史と聖書からその類似性を吟味すると見えてくる事実です。
 まず、書籍から比較的端的な指摘がある部分を導入として引用します。
【第三の教義--無原罪受胎
 第三の教義は、1854年2月8日にピウス9世が宣言した「無原罪受胎」の
教義で、マリアが原罪なくしてその母アンナの胎に宿ったとするものである。……
 実は、この教義は最も無理があり、最も抽象的思弁的なものなので、古来
しばしば論議の的になっていた。マリア好きだった聖ベルナルドゥスも、
またトマス・アクィナスも、神学的正当性に欠けるとして退けている。
はっきりと異端のカテゴリーに入れられた時代もあり、1644年のローマ
異端審問条例は、「無原罪受胎=Immaculata Conceptio」という言葉の
入ったすべての文書の没収を命じている。宗教改革をへてカトリックの
脱迷信化がはかられたころだ。
 そのように大いに問題のある考え方だったのに、19世紀も半ばになって、
どうして突然、教義として取り上げられたのだろうか。それはヨーロッパの
カトリックが、19世紀に非宗教主義の攻撃の的になったからだ。反教会の
傾向に脅威を感じるあまり、かえって反動的にマリア神格化の方向に傾いて
しまったのだ。                つづく。】

200 :189つづき:04/05/30 22:20 ID:gB2/p7Tq
【しかも、この「無原罪受胎」という言葉は、教義化されて4年後の1858年に、南仏ピレネー地方のルルドで少女ベルナデットの前に現れたといわれる
聖母が、名を問われて答えた時に使われた。その後ルルドが、その時に沸いた
「奇跡の泉」の評判のために急速に聖地として発展したせいもあって
「無原罪受胎」は聖母のもっともポピュラーな形容のひとつにまでなって
しまった。
……………
第四の教義--マリア被昇天
 第四の教義は、1950年11月1日、やはり、法王ピウス11世が宣言した
「マリア被昇天」の教義である。これはカトリックの50年ごとの大聖年
にあたって発表されたものだ。 】
[上記『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』竹下節子
                講談社メチエ137 P125-127より抜粋]

201 :200の再投稿:04/05/30 22:23 ID:gB2/p7Tq
>>199より続いています。
【しかも、この「無原罪受胎」という言葉は、教義化されて4年後の1858年に、
南仏ピレネー地方のルルドで少女ベルナデットの前に現れたといわれる
聖母が、名を問われて答えた時に使われた。その後ルルドが、その時に沸いた
「奇跡の泉」の評判のために急速に聖地として発展したせいもあって
「無原罪受胎」は聖母のもっともポピュラーな形容のひとつにまでなって
しまった。
……………
第四の教義--マリア被昇天
 第四の教義は、1950年11月1日、やはり、法王ピウス11世が宣言した
「マリア被昇天」の教義である。これはカトリックの50年ごとの大聖年
にあたって発表されたものだ。 】
[上記『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』竹下節子
                講談社メチエ137 P125-127より抜粋]

202 :名無しさん@3周年:04/06/17 03:56 ID:GITplxlk
 回線切る前にageます。

203 :名無しさん@3周年:04/06/17 04:53 ID:gjIHSJkC
キリストの説く愛なんざ残虐非道ゲルマン民族らの征服欲を満たすものでしかない。
絶望と貧困の砂漠で生まれた神は砂漠へ還るがよい。

204 :名無しさん@3周年:04/07/04 19:27 ID:6RojhM9Y
>>203
 随分ひどいことを言いますね。神に気づくときには、それがある歴史の一地点
とか、世界の中の一地域のことであるとか、そういう見解を持つとは思えませんが。
 キリスト教に恨みがあるとしたら、それはあなたのどんな知識によるものでしょう?
あるいは、どんな話を聞いたり体験したりしましたか?よかったらその辺の
思いを含めて反発する感情を吐露して下さい。>203さん。



205 :名無しさん@3周年:04/07/17 01:12 ID:VjATWqMx
 仮の掲示板ではありますが、次のフリーレンタル掲示板に自分の意見を書いたり
皆さんの考えや質問を聞いたりする場所を設けるようにしはじめました。
 これまでは何もないに等しい掲示板でしたが、今後色々と書き込みつつ、
ホームページや掲示板を正規に作っていこうと考えています。削除の必要性が
ない限りはプライバシーは尊重した運営をしたいと考えています。ヨロシクどうぞ!
掲示板アドレス:URLにmusicなどが入っているのはご愛嬌ということで…
http://jbbs.livedoor.com/music/5560/

206 :名無しさん@3周年:04/07/28 07:09 ID:glkCqu3B
 カトリック信者が気をつけなければならないと考えられること、
これからその点について書き込んでいこうと思います。
 この度は一応上げついでに予告まで。霊の問題が絡むので、信者で
ない人や神を信仰していない人はレスを遠慮してください。また、
揶揄誹謗もなさらないようにお願いします。
 マリアの出現現象として20世紀末、カトリック関係を含めて奇跡が
注目を集めました。そういう意味で、霊の関わりや奇跡現象についての
話はネタやお茶らけではありません。問題の根が深く、非常に恐ろしい
問題なので書き込みをためらっていましたが、少しづつ様子を見ながら
書き込みするつもりです。では、予告まで。

207 :名無しさん@3周年:04/09/04 14:45 ID:ti72AOSu
 >>199で引用した以下の文章は、次のURL上の情報と重なっていることが
わかりましたので一先ずそのことを書き込みします。

該当文面[Any Stigma to Beat a Dogma]内2-3段落目あたり
http://www.catholic.net/RCC/Periodicals/Inside-0995/0809-97/mary.html

>>199の引用個所から 以下は抜粋
【 実は、この教義は最も無理があり、最も抽象的思弁的なものなので、古来
しばしば論議の的になっていた。マリア好きだった聖ベルナルドゥスも、
またトマス・アクィナスも、神学的正当性に欠けるとして退けている。
はっきりと異端のカテゴリーに入れられた時代もあり、1644年のローマ
異端審問条例は、「無原罪受胎=Immaculata Conceptio」という言葉の
入ったすべての文書の没収を命じている。宗教改革をへてカトリックの
脱迷信化がはかられたころだ。】
[『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』竹下節子 講談社メチエ137
                           P126 L2-5]

208 :名無しさん@3周年:04/09/04 20:43 ID:Mp0d9eCH
愛が無いと言ってる人へ
自分から心を開かなければ、誰とも突っ込んだ話はできないよ。

209 :名無しさん@3周年:04/09/05 06:30 ID:7CpIK+X3
>>208
 自分は、「愛」を>>97で引用されている意味でここでは使っています。
つまり、愛の成長する秩序として問題にしているのは、果たして我々が信仰する
神は、真の神に対するものであるか?愛は真実育まれる教会がそこにあるか?
という問いかけです。
 208のあなたは、一般論として「愛」という言葉を使っていますね。無責任な
話です。その人が心を開いて傷を負おうが親しい関係が持てようがあなた次第だし
あなたの責任だと言うだけのことに思えます。こちらは神への信仰が前提となって
真に「愛」はお互いを結びつけるのではないか?と問題提起しているのです。
話の視点が一般論とは少し異なるということをご理解下さい。あえてあなたの
言い方を真似てここを説明するなら、心が閉ざされていった原因に焦点をあてて
スレッドが進行しているということも言えるかもしれない。つまり、愛に対して
一般の人と視点が異なり、話のベクトルもまったく逆な意見交換を求めている
スレッドだということです。

210 :209訂正 L3:04/09/05 06:36 ID:7CpIK+X3
>愛は真実育まれる→○愛が真実に育まれる

211 :名無しさん@3周年:04/09/09 08:37 ID:T+Tjsau4
神は、まず自分に似せて人を創り家畜・動植物その他の被造物を創った。自分に似せて創った人とは
白人の事であり白人は神の代理人である。また家畜・動植物は人間に搾取され使役される為に神が創った
ものであるから黒人の如き獣は家畜と同等であるから殺そうが奴隷使役しようが何の罪悪感もない。
異教徒や入信しないものは神を冒涜する存在であるから絶滅させるのが神の意志であり神の代理人である
白人にとって正義の戦(crusade)である。また未開の地に文明を根づかせるのが神が定めた明白な使命
(ManifestDestiny)であり未開・野蛮人を殺戮し排除するのは神の意志である。

212 :名無しさん@3周年:04/09/09 09:37 ID:kPD906R2
 『人間は彼の仲間を神において、また神からして愛することによって、内的に
正しい仕方でかれの仲間に秩序づけられる。仲間を神の子としてながめ、愛するの
が正しいやり方である。この愛は超自然的な隣人愛に他ならない。』
 という意味でキリスト者同士、隣人どうし、神を愛して隣人を愛する実践が
信仰の基準。聖書自体は文字に過ぎず、それ自体は真理ではないし、慣習の中に
それがあるのでもない。信仰の基礎には内的な平和が大切。それは
『内的な平和を有しない人間も、多くのことを一致してやることはできるが、
つまり「仲良く」やってゆくことはできるが、人間的に善い、ふかい、そして
エレガントな仕方で共同生活を営むことはできない。かれらの間の協調は真に
堅固な基礎を欠いているのであって、それは利害、慣習、強制ないし外的実力
によって保たれているのである。』という指摘を鑑みるべきであるから。
教会が地獄やハルマゲドンなどのことを喧伝し宣教に利用しているとしたら、
それも全く間違ったものである。
『未来、つまり未来の事件や「変革」にたいする怖れ(不安)は、けっして真の
愛の動機とはなりえない。たんに怖れからして行動する者(援助し、大いなる
権利を譲り、均等に協力する者)は、自らの利益、適当な時期における「再保障」
の望みによって駆り立てられているのであって、好意や没我的な人助けの
心がまえによって動かされているのではない。』のであるから。
 信仰生活は、愛のためにあり、教会生活も個々の信徒生活も内的平和に満た
されたなかで初めて本当の信者の第一歩を踏み出すことで、個々を活かし、
教会を活性化させる一粒の塩と一人一人がなっていく気がしている。

213 :名無しさん@3周年:04/09/09 19:09 ID:kPD906R2
2 正しい行為なるものは独自のもの、つまり人間行動のほかの領域から区別されたもの
である。それは、たとえば飲食にあたって節度を守ることとは異なっており、また危険に
直面して剛毅であり、幸、不幸にさいして平静であることとも違う。正しい行為は意志に
かかわることである。意志がつねにいたるところにおいて、自発的かつゆらぐことのない
決意をもって、だんことして「正」が要求するところにつくためには、かれは内面的に
「正」へとかたむいており、正しい行為をなす心構えができていなければならぬ。意志は
このような心構えを正義の徳からうけとるのであり、したがって後者は聖トマス・
アクィナスが言っているように「ひとをして、確乎として不断の意志でもって、各人に
かれに当然属するもの(正)を与えしめるところの、習性」にほかならぬ。
 したがってひとはつぎの場合のみ正義の徳を所有している――すなわち不断の習練、
つまりいつも正しい行為をくりかえすことによって、ついには、いつでもあらゆる点を
考慮した上で各人にかれのものをあたえようとする傾向を現実に身につけ、またそのように
努力するようになった場合に。

3 「正」はきわめて高い意義を持つものであるから、人々が正義の徳を身につけ、
それによってかれらが正義のさまざまの要求(しばしば厄介なものと感じられることも
あるのだが)をたんにいやいやながら、また外面的にでなく、自発的かつ内面的に
遂行するということ、また不正をなすことを正直に避けるということは、きわめて
重要である。それゆえに正義の徳を獲得し、養成するということは、正しい教育が
めざす緊急な目的である。正義の徳はとりわけつぎの人々、つまりその身分ないしは
職業からして「正」(法)に仕え、人々と「正義にかなう仕方で」接しなければならない
人々にとって必要である(立法者、裁判官、権威者、さらに両親、教師、経営者、
仕事の責任者、など)。

214 :名無しさん@3周年:04/09/11 17:22:49 ID:uwupr6jl
主イエス=キリスト様を信仰し、聖書を全て暗記すれば救われますか?

215 :名無しさん@3周年:04/09/12 13:44:41 ID:7qrKntkQ
キリストの説く愛や自己犠牲の精神は同じ白人種キリスト教徒のみに向けられた。有色人種や異教徒は、その
範疇に入らずむしろ対決すべき絶滅すべき存在とて看做されキリスト教徒にとって「正義の戦」を正当化するもの
勝利を約束するものとして大いに利用された。十字軍の蛮行、ユダヤ教徒の虐殺、魔女狩り、異端審問、内紛では
三十年戦争、百年戦争、ユグノー戦争、そして16世紀以降スペイン・ポルトガルに始まる「大航海時代」と言う美名
のもとでの地球規模大侵略時代。教会の名により神の名により土地の領有を勝手に宣言し現地民を大虐殺してきた。
アフリカの分割統治、黒人奴隷貿易、インディアン抹殺、東アジア植民地経営、野蛮な民が住む未開の地を文明の沃土
に変えるのは神が与えた使命として正当化してきた。キリスト教の階級支配的自然観や二元論的価値観は開拓者精神(
フロンティア精神)無限空間征服精神(パイオニア精神)に発展し白人たちとくにアングロサクソンたちの精神構造に
組み込まれている。

216 :名無しさん@3周年:04/09/12 19:09:23 ID:PQ0JErrm
>>211
 白人と黒人のどちらに正義があるかという問いは、無意味です。
愛が欠けると正義は、不正義に転じると思われます。
白人を知ること、黒人を知ることに対して真摯であることがまず必要です。
白人だから神の側、黒人だから神の側、という対立図式は神の前には
成り立たないと思います。白人のことも黒人のこともありのままに知る。
そして白人の間にも黒人の間にも「愛」があることをもって神の民となし、
白人と黒人の間にあっても「愛」が培われることとなって初めて神が共に
彼らとある、ということが言えるわけです。愛がないところには対象が
白人であれ、黒人であれ、神が共にいないのです。
●Tヨハネ2章9節
《「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。》
●Tヨハネ4章20節
《「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。
目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。》

217 :名無しさん@3周年:04/09/12 19:16:35 ID:PQ0JErrm
>>212-213
 こちらの書き込みをコピペしましたね。賛同いただけているということ?
どうも。

>>214
>主イエス=キリスト様を信仰し、聖書を全て暗記すれば救われますか?

 「イエス・キリストは私の主です。」と信仰の告白を公にすること。
イエス・キリストが人々を愛したようにそれに倣って隣人を愛すること。
そうすれば天の国に近い人になれるかも。
 聖書の福音書や手紙類、旧約の詩篇や箴言など、憶えておくと良い部分
は聖書に沢山あります。しかし、そうしたことは義務でも命令でもありません。
●ルカ福音書12章28節
《今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように
装ってくださる。》

218 :名無しさん@3周年:04/09/12 19:22:08 ID:PQ0JErrm
>>215
 あなたの考えは、極端過ぎます。返答しだすと長くなるので今はスルー
します。あしからず。

219 :名無しさん@3周年:04/09/13 09:36:11 ID:JmdlB/ZG
>>218
極端?どこが?私は歴史的事実を述べたまで。このような言説を受け入れられないのは
貴方が無知かキリスト教に潜む暗部を見ようとしてないだけではないのか。
確かに「愛」の教えは崇高で立派なものであろう。しかしキリスト教徒たちは、その
教えとは全く真逆の蛮行を繰り返してきた。現に2000年3月12日ローマ法王ヨハネ・パウロ
U世は大聖年における最重要行事として過去1000年間カトリック教会が犯した大罪を懺悔し
謝罪したではないか。

220 :名無しさん@3周年:04/09/13 10:04:17 ID:z6A+01V0
>>215
>>219

プロテスタントの場合、カルバン派の「滅びに定められた人々」という
考え方がその残虐性につながっていると思われる。神から滅びに定められた
人々を、虐殺してはいけないなどとは思ってもみないだろうから。


221 :名無しさん@3周年:04/09/13 10:43:09 ID:z6A+01V0
この板を見ると、こまかくよく規定しているね。
(これらの規定はカトリックの本当の規定なの?)

キリスト教版のコチコチパリサイ派のようだ。規定フェチ
というかね。しかも(等価の基準等で)客観的な基準がないところがすごい。
このあいまいさのために、教会に都合がよいように利用されかねない。

それを喜んで受け入れている人は、従えばいいけど。
各人にはそれなりぬふさわしいやり方がきっとあるんだろうね。

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