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◎ ○ 原始仏典の仏陀の言葉 ○ ◎

1 :仏陀の言葉:04/08/29 16:29 ID:drvSAl9m
修行者たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、『善にして、
尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、もしもだれかに問われたなら
ば、かれらに対しては次のように答えねばならぬ。── 『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。しから
ば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』
というのが、一つの観察〔法〕である。『これは苦しみ消滅である。これは苦しみの消滅に至る道である』という
のが、第二の観察〔法〕である。修行僧たちよ。このように二種〔の観察法〕を正しく観察して、怠らず、つと
め励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
── すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと
(不還)である。──  尊師はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように
説かれた。 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところ
をも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、── かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれらは実に生と老いとを受ける。 しかるに、苦しみを知り、
また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する
道を知った人々、── かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させ
ることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

2 :仏陀の言葉:04/08/29 16:54 ID:drvSAl9m
<他人を崇拝することについて>

さて尊師が雨期の定住に入られたとき、恐ろしい病いが生じ、死ぬほどの激痛が起った。しかし尊師は、心に念じ
て、よく気をつけて、悩まされることなく、苦痛を堪え忍んだ。
 そのとき尊師は次のように思った、 ── 「わたしが待者たちに告げないで、修行僧たちに別れを告げないで、
ニルヴァーナに入ることは、わたしにふさわしくない。さあ、わたしは元気を出してこの病苦をこらえて、寿命の
もとを留めて住することにしよう」と。
 そこで尊師は、元気を出してその病苦をこらえて、寿命のもとを留めて住していた。すると、尊師のその病苦は
しずまった。ついで尊師は病いから回復された。病いから回復されるとまもなく、住居から外へ出て、住居の陰に
ある設けられた座席に坐した。そこで、若き人アーナンダは尊師のいますところに近づいた。近づいてから、尊師
に敬礼して一方に坐した。一方に坐した若き人アーナンダは、尊師に次のように言った。
── 「尊い方よ。尊師は快適でいらっしゃるようにお見受けします。尊師が健やかになられるのをわたくしは拝
見しました。わたくしの身体はいささか堅くこわばっているようです。(呆然自失して)諸々の方角さえも、わた
くしにははっきりとわかりませんでした。諸々の教えもわたくしには明らかではありませんでした。
わたくしは明らかではありませんでした。

3 :仏陀の言葉:04/08/29 16:54 ID:drvSAl9m
それは尊師の病いの故でした。ところが(いまは)<尊師が修行僧たちについて何ごとか教えを述べられない
あいだは、ニルヴァーナに入られることは無いであろう>という或る安心感がわたくしに起りました」と。
「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく
)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。『わたくしは修行
僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ
、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは、『修行僧のなかまはわ
たくしに頼っている』とか思うことがない。
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、歳をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わた齢は
八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の
助けによってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の
無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。

4 :仏陀の言葉:04/08/29 16:55 ID:drvSAl9m
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころと
して、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたより
とせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、
どうして起るのであるか?
 アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間におけ
る貪欲と憂いとを除くべきである。感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂い
とを除くべきである。
 アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
 アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、
他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々が
いるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、── 誰でも学ぼうと望む人々は ── 。」
                            サンユッタ・ニカーヤ 第7 第1章より

5 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/30 22:35 ID:TwCh790f
―神いわく―
「ひとは、どれだけの日時にわたって修行者の行いを行うべきであろうか?
―もしも自分の心を制することができないならば。〜」
―尊師いわく―
「〜修行僧は、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することな
く、他人を悩ますことなく、束縛の覆いを全くときほぐして、なんぴとをも
謗るな。」(サンユッタ・二カーヤT 神々との対話)

「この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分)の主であろ
うか?賢者は、自分の身をよくととのえて、(自分の)主となり得る。」
(感興のことば)



6 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/30 22:36 ID:TwCh790f
「ねがい求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののき
がある。この世において死も生も在しない者、―かれは何を怖れよう、何を欲
しよう。」
「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のと
おりである。〜他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはな
らない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
〜何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじては
ならない。悩まそうと怒りの想いをいだいて互いに苦痛を与えることを望んで
はならない。
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生き
とし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)のこころを起こすべし。
〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の
欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。」
(スッタにパータ ブッダのことば)

7 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/05 12:30 ID:0eWzEpaY
それぞれの経典で、悟りに導く道が示されている。それは多少違う。それぞれの人々の状況に応じて、
現世での悟りか、または、この迷いの生存に戻らない方法が示されているからである。
この世でニルヴァーナを得るか、この世でニルヴァーナに近い状態になり、この迷いの生存に戻らな
いようになるか。要するに、現世で彼岸の状態に近いようになれば、死後もこの迷いの生存に戻らな
いのである。彼岸に近い状態を知り、それを追い求めること、それがこの迷いの生存に戻らない方法
であり、行いによりこの迷いの生存に戻らない者となるだろう。

この迷いの生存に戻る要因は、この生存世界に対する諸々の愛著があるからである。生まれないよう
に仏教を行おうとして、彼岸世界にあるものを取り入れず、この生存世界にあるものだけを行えば、
また生まれてしまう。様々な状況の中で、彼岸世界にあるものに相反する行いをしないこと。これが
生まれないようにする道だろう。

要するに、様々な状況の中でも、心を彼岸にあるものに落ち着かせること。心が煩悩に従えば、この
迷いの生存に戻るのである。

そう言い切れるのは、ニルヴァーナを一旦は得ながら、それに心を留めず欲念に従い、ニルヴァーナ
の境地を失った経験からである。そうでなかったら、仏教などに興味はなかっただろう。



8 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/05 12:31 ID:0eWzEpaY
「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は苦悩から
解脱しないのである。」
ニルヴァーナを知ったら、生まれないようにしたいと思うのは当然であり、妄執によりその境地を失
うことを知り、死後も人は、ニルヴァーナより妄執に敗れるというのは予想がつく。ブッダの教えは
死後の現実なのです。ニルヴァーナに心が留まらない、欲望に負けてしまう。この世への愛著に負け
てしまう。人は妄執に従ったままならば、更に悪い状態になって生まれるだろう。地獄か畜生の胎内
かヤマ(死者の世界)で苦しむ。「生存のための妄執も、生存の断滅(生存を断つこと)の妄執も存
在しない。」その妄執に従い、生存の断滅を行ったならば、苦しみの世界に生まれる。

「かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足
すべきである。」「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽し
むであろう。かれらは快楽を求めないからである。」
死もなく、何も恐れることのないその境地は、何もくよくよ思いめぐらすことなく、迷いなく悟りの
境地であり、こだわりなく、この上なき最上の喜びの境地は、この世間の喜びもなく、平安と安らぎ
をただ喜ぶような境地。苦悩なく、その快適な境地は、やはり自然と静けさを楽しむような開放され
たような境地であり、一切の生きとし生けるものを慈しむような境地でもある。
法華経にも「すべての存在は水の泡か陽炎のごとし。速やかに一切の存在に対し嫌悪を抱け。」と書
いてあり、在家の人々がそれをいつ行えばよいのか、迷わさないように説いてある。生存と相反する
彼岸は、今生きる人にとっては、安らぎを与えるものとなったり、迷いにもなるだろうから。



9 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/05 12:32 ID:0eWzEpaY
「すべての存在は水の泡か陽炎のごとし、一切は虚妄である。」「その身は泡沫のごとくであると知り、
かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に
見られないところへ行くであろう。」「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見
よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。」
そのように、ニルヴァーナを得る時は、「すべての存在は水の泡か陽炎のごとし、一切を虚妄である。」
と感じるのである。今まであったこと、悩みなどはほんの僅かなことと感じられるようになる。
そして、死もなく、恐れなく、迷妄なく、こだわりのない安楽な境地に至る。

つまり、「世の中を泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。」その言葉に従うことに
よって、悟りの境地に近づくのである。悟りの境地に近づくことによって、人は清浄となる。

「一切の形成されたものは無常である」と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり
離れる。これこそ人が清らかになる道である。諸々のつくられた事物は、すべて無常である。生じては
滅びる性質のものである。それらの静まるのが、安楽である。
「一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざか
り離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである」と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり
離れる。これこそ人が清らかになる道である。非我なるものを我と思いなさず、個体に執著することな
く、ひとえに思考の対象となるものでさえこの世の存在であり、彼岸の我ではない。仏教は、彼岸の我
(本当の自己)の追求だから、この世の事物から遠ざかり離れることの追求なのです。この世の事物か
ら心が遠ざかり離れることで彼岸に到達するのだから、いずれは遠ざかり離れねばならない。或るもの
をああだろう、こうだろうと考えても、それらは虚妄となる。「安らぎは虚妄ならざる真理である。諸
々の聖者はそれを真理であると知る。」安らぎである彼岸の我を得とくすること、これが修行の目的な
のです。在家者もその方向でいること。これが生まれないようにする方向なのです。



10 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/07 20:53 ID:vI0p3IxB
「道理を語らない人々は、善い人々ではない。情欲と怒りと迷妄とを捨て、道理を語る人々
は善い人々なのである。」
「未だかつて渡った人のいないこの激流を渡り、彼岸に至り、信憑すべき根拠に基いて語る
のである。」
仏教は道理の教えである。そして、教えはおおよそ道理で説明できるものだろう。道理を語
らない人々は、善い人々ではないと言われる。そして、信憑すべき根拠はニルヴァーナであ
る。完全に解脱したブッダは、平安の境地に到達し、平安の境地から教えを語る。

しかし、「見られたことは見られただけのものと知り、聞かされたことは聞かされただけの
ものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また
識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅できると説か
れる。」境地で知るのだから、見る、聞く、考えた、識別されたことはだだそれだけのもの
である。「見聞することがらにも汚されない。」こと。


11 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/07 20:54 ID:vI0p3IxB
「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり〜そこには、すでに有った
ものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところの
その境地を、わたくしはよく知っている。依存することも無く、そこには白い光も輝かず、
暗黒も存在しない〜聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたち
からも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐
れること無く、疑い無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これ
がかれの最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の
相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。」(ニルヴァーナ)

生も死もない境地が存在する。死もないのに、死を感じ怖れるのは、肉体からで他ならない。
肉体が死の恐怖という錯覚を生み出す。しかし「生存のための妄執も、生存の断滅のための
妄執も存在しない。」妄執により、悪いところに生まれるのだから、生存の断滅により、取
り返しのつかない悪いところに生まれるだろう。

12 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/07 20:55 ID:vI0p3IxB
「欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。」
「快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば、憂いが存在しない。」
「人間のうちにある諸の欲望は、常住に存在しているのではない。欲望の主体は無常なるもの
として存在している。束縛されているところのものを捨て去ったならば、死の領域は迫って来
ないし、さらに次の迷いの生存を受けることもない。」
「人間たちはまこと快楽のために、また愛欲の因縁のために、種々の苦悩に遭遇しているので
ある。かれらは、現世において切望しているもののために、また来世においては獲得しようと
しているもののために、地獄や畜生の胎内やヤマ(死者)の世界に生まれかわって、種々さま
ざまな苦悩に遭うであろう。」(法華経)
「もはや畜生として生まれることもない」(サンユッタ・二カーヤU)

欲情や快楽から恐れが生じる。本能を刺激することで、恐れと迷いが生じる。彼岸世界は、欲情
や快楽もなく、平安であり安楽である。恐れもない。彼岸にないものへの喜び(肉体への刺激)
により、死の恐れが生じ、欲情や快楽を求めることにより、次の生存を受ける。

「潜在的形成力」というものがあり、その欲などにより、新たに生存の形成が生まれる。貪欲に
よって、それに相応しい体(畜生)などに生まれるかもしれない。一旦は、人間の姿全ては消え
るのだから、その次は何に形成されてもおかしくはない。恐れは、ひとつの警告なのだ。清浄に
近い者ほど、恐れることはない。


13 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/12 12:31:49 ID:P35kuq5W
〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし、この世では、この状態を崇高な
 境地と呼ぶ〜(スッタ二パータ)、 
〜敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜あなたがたは敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで
 貸してやれ〜いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる
 神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ(イエス)

〜(へび)神のように善悪を知る者となることを〜(創世記)
〜麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません〜(スッタにパータ)

〜一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て、「清浄である」と
 か「不浄である」とかいってねがい求めることもなく〜(スッタ二パータ)
〜いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。〜(イエス)

〜この身は泡沫のごとしと見よ。この身はかげろうのごとしと見よ〜(ダンマパダ)
〜あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く
 霧にすぎない〜(新約聖書)
〜人の命は短いものであると賢者は説いているのだ〜(スッタ二パータ)


14 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/12 12:32:52 ID:P35kuq5W
〜争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は、目ざめた人ブッダ説きたもうた理法を、説明されても
 理解しない。かれは、無明に誘われて、修行をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であるこ
 とを知らない。実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、暗黒か
 ら暗黒へと赴く。〜(スッタ二パータ)
〜これらの論争が諸々に修行者の間に起こると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論
 争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである〜(スッタ二パータ)

〜何を論じあっているのか〜(イエス)
〜愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたがたの知っているとおり、ただ争いに終わるだけである〜
(新約聖書)

〜一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない〜(スッタ二パータ)
〜むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい〜(新約聖書)

〜真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない〜安らぎは虚妄なら
 ざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る〜この平安の境地に達して(スッタ二パータ)
〜そして「やすかれ」と言われた。「平安あれ」(イエス)

〜世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが従属
 した〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている〜(新約聖書)


15 :実行委員長:04/09/12 18:27:31 ID:Ldj5ObAP
国訳一切経にある。止息経をインター・ネットに出したので、わたしは、仏陀になって
死ぬことができる。

16 :名無しさん@3周年:04/09/13 13:04:19 ID:7MWUkxCF
「言葉で説かれたという理由だけで、それを信じ込んではならない。
 また太古から後世に言い伝えられているという理由だけで、伝承に従うべきではない。
 風説もまたしかり。

 賢人(学者、聖仙)によって書かれたものも、賢人が書いたという理由だけで、
 それを鵜呑みにすべきではない。
 またひとりの神によって、我々の中に惹起された様に感じられる
 幻(啓示や霊感、奇跡等)を、信じてはならない。

 また我々が陥り易い、必然性の無い憶測によって導かれた思い込みの結論からも、
 また類推的に必然と思えるからとても、
 また偉大なる導師や教師の権威によっても、
 信じてはならない。

 しかし我々はその著述や教義や口述等の内容を、我々自身の
 理知性や意識(客観的認識)によって確証を得た時、信ずるに足るといえる。」 
                                   仏陀

17 :名無しさん@3周年:04/09/13 17:14:42 ID:oV1iXo3c
仏舎利をインターネットオークションに出したので、わたしは、借金を残さず
死ぬことができる。

18 :実行委員長:04/09/13 17:17:24 ID:blGpmn3m
馬鹿発見。

19 :名無しさん@3周年:04/09/13 17:19:09 ID:oV1iXo3c
仏舎利集めて、よからぬことを企んでいるカルト集団の方が大馬鹿だ。

20 :実行委員長:04/09/13 22:44:50 ID:blGpmn3m
ここは、オウムの残党ですね。

21 :名無しさん@3周年:04/09/13 22:59:20 ID:k9eS5y8l
いいね。このすれ

22 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/14 20:22:36 ID:WvkIbZgU
〜賢者は、両極端に対する欲望を制し〜自責の念にかられない悪い行いをしないで〜(スッタニパータ)
〜これは中〔道〕に依るものであり〜(サンユッタ・ニカーヤU)
〜神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである〜
 (新約聖書)
〜たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない〜わたしのこ
 とばを受け入れない人は、その人をさばくものがある〜(イエス)

障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし(ブッダ)敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜あなたがたも慈悲深い者
となれ。生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも、暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の
幸せを求めていても、死後には幸せが得られない〜身やぶれてのちに、地獄に生まれる(ブッダ)
「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいのでしょうか」殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、欺
き取るな、父を母とを敬え(イエス)

オウムなど、教祖の指示で殺人を犯した宗教団体は、天に反する宗教団体である。彼らを支持するだけで、人の心
は汚されるだろう。なぜなら、どのような理由であれ、宗教で殺人を犯した団体を支持する者は、天にあるものを
教える立場にある宗教の本質をも受け入れようとしてないからだ。天では、殺人もなく、姦淫もなく、争いもなく、
平安で清浄。殺人を犯した宗教団体は、いけないと思うだけでも人の心は、それだけ清浄だといえるだろう。

慈しみは善いことだと受け入れて、なるべく人に苦痛を与えないように生きようとすることが大切なことだと思い
ます。

23 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/14 20:23:24 ID:WvkIbZgU
〜善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ〜また悪の報いが熟
 しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う〜
 (ダンマパダ)
〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けなければならないからである〜(新約聖書)

〜およそ仙人や常に人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような
 生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである〜(スッタニパータ)
〜神々の奴隷になっている〜偶像なるものは実際は存在しないこと、〜たとい神々といわれるものが、あるいは天
 に、あるいは地にあるとしても、そして多くの神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯
 一の神のみがいますのである。万物はこの神がら出て、わたしたちもこの神に帰する〜ある人々は、偶像につい
 ての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのであ
 る〜父には、変化とか回転の影とかいうものはない〜(新約聖書)

〜われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、
 地のすべての這うものとを治めさせよう〜(創世記)
〜水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、種類の区別のあることを知れ〜翼を乗り物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、
 種類のあることを知れ〜小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも種類の区別のあることを知れ〜いかなる
 生物生類であっても、怯えているものでも、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも〜すでに生ま
 れたものでも、これから生まれよう欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ〜(スッタニパ
 ータ)

24 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/14 20:24:06 ID:WvkIbZgU
〜欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあ
 ろうか〜(ヴダーナヴァルガ)
〜かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、死時には苦しみにおそわれて悲嘆する
 〜(スッタニパータ)
〜情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである〜(イエス)
〜肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、
 いのちと平安とである〜(新約聖書)

〜「わたしは何を食べようか」〜「今夜わたしはどこで寝ようか」家を捨てて学ぶ人は、これらの四つの憂いに導
 く思慮を抑制せよ〜(スッタニパータ)
〜何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな〜(イエス)

〜かれらは、過ぎ去ったこをを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在
 のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だ
 けで十分である〜(イエス)

〜お前たちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな〜(注釈)葬儀などやるな、という思想は原始仏典聖典にま
 ま散見するが〜(大パリニッパーナ)
〜わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい〜(イエス)



25 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/14 20:24:54 ID:WvkIbZgU
〜一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない〜(イエス)

〜正しい法に従って得た財を以って母と父をを養え〜死後にみずから光を放つという名の神々のもとに赴く〜(スッ
 タニパータ)
〜父と母とを敬え〜父または母をののしる者は、必ず死に定められる〜(イエス)

〜梵天の親族であるあなたは、おいしく料理された鳥肉とともに米飯を味わって食べながら、しかもわたしはなまぐ
 さいのを許さないと称している。カサッパ(ブッダ)よ、わたくしはあなたにこの意味を尋ねます〜生き物を殺す
 こと、〜盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、〜他人の妻に接近すること〜怒り、驕り、強情〜法廷で偽
 証し〜これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのでない〜(スッタニパータ)
〜口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか〜殺人、姦淫、不品行、
 盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである〜(イエス)

〜このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは見る視力が無いとい
 う以外の何だろう〜(スッタニパータ)
〜幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである〜(イエス)

〜未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし〜神よ、もしも雨を降らそう
 と望むなら、雨を降らせよ〜(スッタニパータ)
〜富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい〜(イエス)



26 :名無しさん@3周年:04/09/14 21:46:11 ID:udck6eFw
葬儀をやるな、死人を葬ることは、死人に任せておくがよい、
宗教は葬儀は関係ないのか。

27 :名無しさん@3周年:04/09/14 22:06:06 ID:jakwj1Hh
肉食することがなまぐさいのでないとブッダは言っているが、生き物を殺すことが
なまぐさいと言っている。仏教思想としては、殺生許さずだったらしいが、生き物
を殺した者がいて、はじめて鳥肉が食える。矛盾しているのではないか。



28 :馬鹿梵天:04/09/14 22:08:43 ID:kCHQui8c

お れ っ て ば っ か だ な〜〜〜〜〜

29 :実行委員長:04/09/14 22:54:22 ID:dxGUKSDA
仏陀のことばを読んでも、仏陀の思考には成らない。
よって、仏陀 聖者にはなれない。

30 :実行委員長:04/09/14 23:01:39 ID:dxGUKSDA
宅間や麻原のように、永遠に死刑判決です。
死刑になると、あまりの苦しさに、また、人間になるのです。

31 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/17 19:56:29 ID:fMdYmmmR
〜万物に対して平等である〜(スッタニパータ)
〜公平とあわれみと忠実とを見のがしている〜(イエス)

〜多くの呪文をやたらつぶやいていても、人は生まれによってバラモンとなるのではない。内心は汚物に汚れ〜(サンユ
 ッタ・ニカーヤU)
〜また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいられるものと思っている〜
 (イエス)

〜心に喜んで、撒き散らし「与えよ」「与えよ」と語る〜その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ〜(サ
 ンユッタ・ニカーヤT)
〜わたしがきびしくて、あずけなかったものを取たて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか〜(イエス)

〜この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退ぞけ〜かれらは、地獄、畜生の胎内、ヤマの世界に生まれる〜(サン
 ユッタ・ニカーヤT)
〜ある金持ちがいた〜ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、そ
 の食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた〜金持ちも死んで葬られた〜わたしはこの火炎の中で苦しみもだ
 えています〜(イエス)

〜貧しき中からわかち与える人は、法を実践することになるであろう〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜だれよりもたくさん入れたのだ〜あの婦人はその貧しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである
 (イエス)〜

〜罪過を告白して懺悔するのを受けいれない人は、内に怒りをいだき、憎悪で重く〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。〜一日に七度罪を犯し、そして七度「悔い改めます」と言ってあなたのとこ
 へ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい〜(イエス) 

32 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/17 23:11:00 ID:fytsJP4a
〜聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、
 この世もかの世も望まない〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることである。わたしの父のみこ
 ころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終わりの日によ
 みがえらせるであろう〜(イエス)

〜そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。〜恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいもない人は生存の矢を断ち切
 った人である、これがかれの最後の身体である〜(ヴダーナヴァルガ)
〜その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであ
 ろう〜(イエス)

〜心に喜んで、撒き散らし「与えよ」「与えよ」と語る〜その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ〜(サン
 ユッタ・ニカーヤT)
〜与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あ
 なたがたのふところに入れてくれるだろう〜(イエス)

〜他人の過失を見るなかれ。他人のしたことしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ〜
 (ダンマパダ)
〜兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか〜まず自分の目から梁をを取りのけるがよい〜(イエ
 ス)

〜この世において死も生も在しない者〜(スッタニパータ)
〜死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる〜(イエス)


33 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/17 23:11:44 ID:fytsJP4a
〜妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望をまでも、すべて捨て〜(スッタニパータ)
〜だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍も受け〜(イエス)

〜牡牛のような人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におもむく〜(サンユッタ・
 二カーヤT)
〜その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合は、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい〜
 (新約聖書)

〜心のうちが平安となれ。〜内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない〜(スッタニパータ)
〜神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ〜(イエス)

〜牡牛のように結縛めを断ち、くさい臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたくしは母胎に入ることはないであろう。
 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ〜(スッタニパータ)
〜だれでも、水の霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない、肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれ
 る者は霊である〜(イエス)

〜天にかかわるくびきを離れてのり超えた人々は〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである〜(イエス)

〜生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には〜依りかかることのない人には、理
 法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない〜(ス
 ッタニパータ)
〜自分の命を愛する者はそれを失い〜(イエス)

〜あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈
 しみのこころを起こすべし〜(スッタニパータ)
〜今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また、他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい〜
 (スッタニパータ)
〜人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない〜(イエス)


34 :名無しさん@3周年:04/09/17 23:13:53 ID:wReKDeoM
イエスは架空の人物?
イエスはスッタニパータを元にして、聖書記者が作り上げた

もうひとりの覚者だったのかも...

35 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/18 01:05:29 ID:JtCzKvvV
〜われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り〜(創世記)
〜あなたがたの律法に、「わたしは言う、あなたがたは神々である」と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神
 々といわれておるとすれば、父が聖別して、世につかわされた者が、「わたしは神の子である」と言ったからとて〜(イエス)

〜へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善
 悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」〜(創世記)
〜あなたは、覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、
 みずから彼岸に渡りおわり、またこの人々を渡すのです。〜麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に
 汚されません、雄々しき人よ、〜(スッタニパータ)

ブッダも神々と対話してきたが、〜一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに過失
(道から外れること)は存在しない〜(サンユッタ・ニカーヤT)人の修行完成者として、修行僧を彼岸に導く。この世で成仏
することを教え、死後も成仏し二度と生まれない存在になることを目指す。人々は、ブッダと真理との教えと、修行僧を尊敬す
ることで、善い運命に導かれる。

イエスは神と人との間の仲保者。〜神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる〜(新約聖書)

〜真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない〜(スッタニパータ)
原始仏典とイエスは類似している点が多いが、真理は一つであって、その一つの真理に基く教えだから、似るのだろう。
 


36 :名無しさん@3周年:04/09/18 22:24:23 ID:wnQydnP+
> 原始仏典とイエスは類似している点が多いが
それはゼンゼン違う。

そもそも、釈尊は「神の愛」などは説かない。

37 :名無しさん@3周年:04/09/18 22:26:36 ID:wnQydnP+
しかし、聖書をでっちあげた作者が、古代の文献を流用したことは
十分ありえるでしょう。

38 :名無しさん@3周年:04/09/19 10:04:48 ID:5RF3iYIA
仏教とキリスト教は似ているどころか、むしろ対照的ですらある。
アートマンとブラフマンを本質的に同一視する不ニ一元論は
神と人間との間に絶対的な差を置くキリスト教の教理から見れば、
異端かグノーシス思想に近いものであって、許容できるものではないだろう。
むしろ一神教で言えば、カバラ思想の方が仏教と似ているかもしれない。

新約聖書の著者たちが東洋の古文献を流用したという事はおそらくない。
むしろユダヤ教の神秘主義者達が東洋の影響を受けたといえる。

39 :名無しさん@3周年:04/09/19 10:10:06 ID:fMTxk6Qa
>>38
イエス自身は、かなり仏教的な価値観を共有していたと思うけど。
特に「トマスの福音書」を読むと、そういう感じを強く受ける。
イエスがエッセネ派だったという説もあるしね。

神と人とを永遠の距離にまで引き離してしまったのは、パウロ以降からじゃない
のかな。むしろ、イエスは「アッバー」という言葉で、神と人との近さを力説した。

40 :名無しさん@3周年:04/09/19 11:22:35 ID:PSb23ze3
ケセン語習おうかな?

41 :39:04/09/19 11:43:45 ID:fMTxk6Qa
釈迦は、「神を説かなかった」とされるけど、「神はない」と断言したわけ
ではなくて、「ある」とも「ない」とも答えなかっただけ。

その裏には、釈迦の時代の特殊事情がある。インド人はバラモン教の教義に
よって、ほとんど誰もが神々や死後の輪廻転生を信じていた。具体的に言う
と、死後の安泰な生活を得るために、宗教的な儀式や善行を積んでいた。
それに対して、「そんな神への崇拝など無効だ」と言い切ったのが釈迦なん
だよね。「神」の否定じゃなくて、「人間が神に対する姿勢」を否定した。

一方、イエスの時代のユダヤにも同じことが当てはまる。多くのユダヤ人に
とって、信仰や戒律遵守とは、せいぜい「来世」の安泰のためだったんだね。
それをイエスは「偽善だ」とすっぱ抜いた。神とは、絶対権力をひけらかし、
賄賂を贈る人間にだけ便宜を図るような存在ではなく、自分の「父ちゃん」の
ような身近な存在なんだ、という説き方をした。

だから、釈迦もイエスも、「人間が神に対する姿勢」の偽善性をすっぱ抜いた
というのは共通していて、時代や文化背景の違いから、その説き方が違って
いただけだと思う。

42 :名無しさん@3周年:04/09/19 21:45:01 ID:TtVnobac
ちなみにイエスはインドに修業にいったんだっけ?

43 :名無しさん@3周年:04/09/19 21:54:32 ID:mCmNBVdY
>>41 仏陀は常見を取らなかった。すなわち「永遠の神の国」、そのような
ものは否定された。

44 :なるほど神はあるとはないですか( ´,_ゝ`):04/09/19 21:57:10 ID:mkfl2PyQ
2ちゃんねる幹部中尾嘉宏(夜勤)ネット成金への道」に罰金30万円

ソース http://jsimin.at.infoseek.co.jp/opinion/newrich.html
共同通信ニュース速報 1997 05/06 18:17
北海道警生活環境課と札幌・中央署は六日、インターネットを利用し
不特定多数の人から金を集めていたとして、出資法違反(預かり金
の禁止)の疑いで札幌市厚別区もみじ台南七丁目、パソコンソフト
開発販売会社社長中尾嘉宏容疑者(37)を逮捕した。
調べによると、中尾容疑者は同社の事業として一月六日から
二月二十五日まで三度にわたり、インターネットに開設した
「新春特別企画 ネット成金への道 オーナー募集」というホームページ
でダイヤルQ2の共同オーナーを募集し、利用者十七人から
二十五口計七十五万円を会社の銀行口座に振り込ませた疑い。
「十八歳未満禁」と風俗関係のダイヤルQ2番組への投資をにおわせ、
一口三万円、最高五口までとして募集。「一年後には配当金プラス元金
を返還することを保証します」と広告していた。同課などは、
中尾容疑者が三十七都道府県の約百九十人から計約八百万円を集め、
会社の運転資金に充てていたとみて裏付け捜査を進めている。


45 :名無しさん@3周年:04/09/19 22:01:17 ID:qanxytFe
>>43
否定はして無いでしょう


46 :名無しさん@3周年:04/09/19 22:10:23 ID:mCmNBVdY
>>45 諸行無常、諸法無我、ですよ。永遠の神の国など有るわけもありません。
(すべてのことやものは恒常ではない、すべてのことものに恒常なる自性はない)。
天国も例外では有りません。天の人も天人五衰などと言うように、いずれ年老い
寿命が尽きて再び地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間(界)などの六道を輪廻するの
です。
イエスは天の世界までしか見通せなかった。

47 :名無しさん@3周年:04/09/19 22:55:35 ID:oMA3SRV4
明日から2週間程、エジプト旅行に行くんですが、スッタニパータも持ってきます。
思えば、この本は私のバイブルです。
アブシンベル神殿まで犀の角のように歩みます。

48 :39:04/09/19 23:05:52 ID:hilFaWIa
>>46
天人五衰の考え方は、仏教が発祥ではなくて、バラモン教時代からありましたよ。
それを避けるために、バラモンの宗教儀式に頼ったのです。
大切なことは、釈迦はそういう儀式を否定し、仏教を起こしたということです。

釈迦は「死後」について語らなかった。ところが、外道との論争の際に、
死後の問題を持ち出されると何も説けないので論争に負けてしまう。
そこで、弟子達は、バラモン教から当てはめられるものを無理に持ってきて、
アビダルマ哲学を作り上げたのです。
アビダルマの世界観を持ち込むと、せっかくの釈迦の教えのエッセンスが
失われてしまいます。ところが、日本の僧侶はほとんどすべてがアビダルマ
クシャ論を一通り学ぶことになっているので、先にそれが常識として頭に
入ってしまう。

49 :39:04/09/19 23:10:15 ID:hilFaWIa
六道輪廻とか、十二因縁とか、十結煩悩とかは、釈迦の没後、400年くらい
かけて完成されてきた理論です。だから、厳密に言うと、これらは釈迦直説
の教えではない。すべて、アビダルマ哲学の産物と呼んでもよいくらいです。

50 :実行委員長:04/09/19 23:20:55 ID:/+EBM0Y+
ピラミッドは、仏陀に成る技術です。

51 :名無しさん@3周年:04/09/19 23:24:40 ID:A1W6Xv8S
なれよ勝手にバカ 死ね

52 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/19 23:40:30 ID:TViP8AgF
〜わたくしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている〜欲情の火は消えた〜神よ、もしも雨を降らそうと望むなら雨を降らせよ〜
〜わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたくしはいかなる悪も存在しな
 い〜神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ〜
〜(牛飼いダニヤ)未だ馴らされている牛もいるし、乳を飲む仔牛もいる。孕んだ牝牛もいるし〜神よ、もしも雨を降らそうと
 望むなら、雨を降らせよ〜
〜(師)未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし〜神よ、もしも雨を降らそうと望
 むなら、雨を降らせよ〜
〜牡牛のように結び縛めを断ち、くさい臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたくしはもはや母胎に入ることはないであ
 ろう〜神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ〜(スッタニパータ)

牛とは当時としては財産。ブッダは、財産のあることに喜び、家を持ち、妻とともに住み、子のある者は子について喜ぶ、とい
う喜びが神の望みではないと説いている。自己をよくととのえて、この世に生まれないことが神の望みだと説いている。

〜「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである
 〜(イエス)
〜ねがい求める者には欲念がある〜(スッタニパータ)と書いてあるように、ブッダの時代の人々が、神といえば願い求めるだ
けで、自己をよくととのえることをしないと考えたのでしょう。諸々の欲望の貪りなどを滅するため、欲望の一切ない世界であ
る彼岸をブッダは教えの基本とした。

53 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/19 23:41:21 ID:TViP8AgF
〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ〜諸々の
 邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に
 宿ることがないであろう〜(スッタニパータ)
〜敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ〜いと
 高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈
 悲深い者となれ〜わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか〜(イエス)

〜多くの呪文をやたらにつぶやいても〜内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている。王族でも、バラモンでも、庶民でも〜下水
 掃除人でも、精励してつとめ、熱心であり、つねにしっかりと勇ましく行動する人は、最高の清らかさに達する〜(サンユ
 ッタ・ニカーヤU)
〜律法学者に気をつけなさい〜会堂の上席や宴会の上席をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをす
 る。彼らはもっともきびしいさばきを受けるであろう〜(イエス)

現代仏教には、お経を読む行為がある。人々はその行為によって清められるものと信じて行う。ブッダとしては、そのような
行為によって人が清められるのではなく、怨みなく敵意を持たず、自分によくしてくれるから人によくするのではなくて、全
ての人を慈しむこと(上に、下に、また横に慈しみを行うべし)、それを善として教えている。

永遠の命の世界は、敵意もなく怨みもなく、憎しみもない。もはや自己というものも存在せす、自分の有益、不利益を思慮す
ることもない。物質的な愛着は一切なく、悪い良いの識別さえ存在しない。非生存状態は一切の悪が存在せず、一切の苦悩も
存在しない。全てを慈しむような世界であり、それらを受け入れていれば、苦悩もない永遠の命の世界に入る。お経をくどく
ど唱えているより、それらの言葉に従えるように努力したほうが、善い運命に向かうと個人的には思う。



54 :名無しさん@3周年:04/09/19 23:48:13 ID:H6Hlgd9C
>怨みなく敵意を持たず、自分によくしてくれるから人によくするのではなくて、全
>ての人を慈しむこと(上に、下に、また横に慈しみを行うべし)、それを善として教えている。
無理無理。絶対むりだってばよ。w
なぜなら人にはそういう欲望を持つべくするカルマがあるから。
カルマがある以上、それをやらないと逝けない。
そうでないと、それはどこか摩擦をため込む結果になるだろう。

国にはその国固有のカルマがある。
土地にはその土地のカルマがある。
個人には個人のカルマがある。
どこに真実がある?経典にか?
笑わせるんじゃねえ!!w

それはつまり、言うなれば幻想ぶっこいてるということなんでしょう。w

55 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/20 00:04:02 ID:nefp3Fbz
>お経をくどく ど唱えているよりそれらの言葉に従えるように努力したほうが、善い運命に向かうと個人的には思う。

私もその通りだと思います。
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9さんの書き込み、興味深く読ませてもらってます。
私は仏教のことは疎いのですが、釈迦も神のことについて触れていたとしたら驚きです。
旧約聖書、新約聖書の福音の冒頭などで、神のことに触れている文章を見るにつれ、
この世の真理が観念論であれば、神を理解しなければ、真理にたどり着けないような気がします。

あ、突っ込まれても論争する気はありませんのであしからず。
僕もまだ、なにもわかっていませんので。

いや、しかし良いスレみつけた。今日は良い一日だった。もう寝よ。

56 :名無しさん@3周年:04/09/20 08:37:49 ID:10BrUcPF
>>49 しかしその理念はしっかりと初期仏典にも示されています。
ちゃんと読んでないでしょう?

57 :名無しさん@3周年:04/09/20 09:24:51 ID:9L0jLCNv
>>39
> 神と人との近さを力説した。
釈尊は、そんなことはいっていませんよ。

トマスによる福音書は、わたしも読みましたけどね。

> 神と人との近さを力説した。
トマスによる福音書にも、こんなことは書かれていませんよ。


58 :39:04/09/20 12:00:15 ID:2McIFMUf
>>57
釈尊は、人間は修行によってアラカンにまで成れると言いました。当時の
バラモン教の神よりも「上」の境地ですね。だから、神と人の近さを説いた
と言ってよいと思います。何よりも、人間はカーストに関係なく成道できる
と説いたことで、バラモンだけに独占されていた神を一般人へ解放した。

トマスには、「知恵を身につけることで真理を得る」とあったと思います。
パウロは、人間が神に近づくには、キリストの仲介によるしかない、と決め
つけた結果、教会が神を独占した。それを一般人へ解放したという意味では、
共通点があると思います。

宗教の堕落は、特権階級が神を独占することから始まるのです。バラモン教も
ユダヤ教も例外ではありません。そこから神を一般人に解放した宗教改革者
がイエスと釈迦だったのです。

59 :名無しさん@3周年:04/09/20 17:34:40 ID:3WCtKi1E
しかしエッセネ派とは違って、
トマス福音書やナグ・ハマディ文書はグノーシス派の聖典であって、
初期の教父達から異端とされた、異端派の人達から見たイエス像でしょ。

実際、イエス自身がどういう教えを説いていたのかは
新しい文献でも発掘されない限り、正確には解らないんだろうけど、

少なくとも既存のキリスト教と仏教とでは折り合いがつくとは思えないけど。

60 :実行委員長:04/09/20 19:13:05 ID:Sa+RrSeE
キリストの最後の使徒は、マテリアス。それは、アマテラスになになった。

2003年の8月のNHK特集に。大阪 高槻市で、巨大はにわで、伊勢神宮の
埴輪が出てきて、その屋根に魚の紋様がありました。

61 :実行委員長:04/09/20 19:14:39 ID:Sa+RrSeE
51は、自分か死ぬのです。お返しします。

62 :実行委員長:04/09/20 20:23:15 ID:Sa+RrSeE
キリスト教と仏教は同じです。

63 :39:04/09/20 21:00:23 ID:1Y2Mg7xx
>>59
そうですね。トマス伝は、グノーシス主義というフィルターを通したイエス
像になっています。それでも、史的イエスを探る上では、他の四つの福音書
と同等の意味があると思います。イエスセミナーのThe Five Gospels では、
トマスは同等の扱いになっていますね。
http://homepage3.nifty.com/gospels/thomas.html

私見ですが、正統派が編纂した4つの福音書は、イエスがもともと持っていた
仏教との共通点を故意に消し去ってしまった。その片鱗が残っているとすれば、
トマス伝に頼るしか手が残されていないのです。

64 :名無しさん@3周年:04/09/21 18:58:50 ID:XPagpfuB
>62

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原始佛教 その8
http://life6.2ch.net/test/read.cgi/psy/1094353424/

65 :名無しさん@3周年:04/09/21 18:59:17 ID:XPagpfuB
あげ忘れたw

66 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/22 18:52:18 ID:+IC4l9TV
神の望み
〜わたくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら雨を降らせよ〜(スッタニパータ)
〜水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊であ
 る〜(イエス)
 
牛飼いダニヤ
〜わたしはもう飯を炊き、乳を搾ってしまった、マヒー河の岸のほとりに、わたしは妻子とともに住んでいます。わが小舎の
 屋根は葺かれ、火は灯されている。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。
〜わが妻は従順であり、貪ることがない。久しくともに住んできたが、わが意に適っている。かの女にいかなる悪のあるのを
 聞いたこともない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。

 神と言えば、日常生活に喜び、財産や所有物に対して喜び、「わが子らはみなともに住んで健やかである」ことに喜ぶもの
 だと考えがちであり、自分の生活の安泰を願い求めるものだと思ってしまう。しかし、自己をよくととのえ、地上に生まれ
 ない者となることが、神の望みであると説かれる。自己をよくととのえた人は、土台がしっかりしていて、たとえ激流が押
 し寄せてきても、耐えることができるだろうとの意図もあるだろうし、現実、現世利益を喜び、全て自分の思い通りになる
 ことを願う人は、自分の思い通りにならなかったことに不満を抱くこともある。

ブッダもイエスも、永遠の命にあるものを地上に伝えることを目的としていると見ることができ、そして、従う人を永遠の命
の国に生まれさせるとしている。

67 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/22 18:53:03 ID:+IC4l9TV
〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜(スッタニパータ)
彼岸は、地上のものが何もなくて、自分(肉体)すら存在せず、平安であり、幸福であり、安穏であり、安楽である。地上で
は、その境地を受け、一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれと想いを抱くのであると考えても
不自然ではない。

〜また全世界の対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし
 〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ〜(スッタニパータ)
慈しみが、この世では崇高な境地である。肉体がなくなっても、慈しみが永遠の命に入ると思っても差し支えないでしょう。
〔一切の事物は我ならざるものである〕この世のありとあらゆる存在も、自分自身さえ我ならざるものである。しかし、慈し
む心は無常ではなく、永遠の命に通じるものであると信じてもよいでしょう。 

〜一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない〜(サンユッタ・ニカーヤT)
あわれみにより罪過は存在しない。

イエスはさまざまの病苦とに苦しむ人々を癒し、多くの盲人を見えるようにしておられた。盲人は見え、足なえはあるき・・
・・・・・・など、この世で苦難に遭遇している人々を、神のわざで癒しておられた。
〜わたしが好むのは、あわれみであって〜(イエス)
永遠の命の国であり天国は、誰でもわかるが病もなく、苦しむ者もなく、困る者のない国である。物質も一切なく、富んでい
る人も、貧しい人も存在しない。全て平等に幸福であると示す。そして、偶像ではなくその世界そのものが天の父であり、イ
エスは神とひとつになり、人の姿で天の父の行われることを(その世界を)、人々に見えるように現した。


68 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/22 18:53:45 ID:+IC4l9TV
〜みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように〜(イエス)地上も天で行われるとおり、全ての人々が、苦しむ
ことなく、困ることなく、敵を愛するほど争いのない地上に、人に親切にする人々が多くなりますようになど、一切の人々が
平安であり、幸福であり、安穏であるように祈り求めること。そのような心が永遠の命に通じる。永遠の命の国は、平安を喜
び、全ての存在が幸福になったことに幸せを感じるような国、安穏で安らいでいることを喜ぶような国だから、地上も平安に
なるよう祈り求める者は、その国に近づき、死後その国に生まれる、とするのがキリストの求める祈りではないか。

とにかく、〜この身は泡沫のごとしと見よ。この身はかげろうのごとしと見よ〜世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげ
ろうのごとしと見よ〜(ダンマパダ) 〜あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれ
れて、たちまち消え行く霧にすぎない〜(新約聖書)けれども、完全消滅ではなく、自分を愛する心と世の中への様々な欲望
は消滅するが、慈愛やあわれみ、寛容や柔和、謙遜などを身に着けた者、静けさを好む者は、死後、永遠の命に至ってもおか
しくはない。なぜなら、ブッダも慈しみを説いているし、新約聖書もそのような感じに書いてあるから。

しかし、お経を唱えよとはブッダは言ってはいない。〜多くの呪文をやたらにつぶやいても〜内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよ
っている〜と。お経を唱えることは、ただ地上のことだけで終わる。永遠の命の世界は、お経を唱えない。宗教としてお経を
唱えることで、心が清まるとするなら、それは間違いだと思う。天上のことが、完全な清浄である。〜もしも、あなたがたが、
人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるだろう〜(イエス)永遠の命の国は、
何ものも責めることなく、無限のゆるし。何かひとのあやまちをひとつでもゆるしたならば、命の国を行い、人を責めるより、
それだけ清浄である。誰をも苦しむ人がなければ、ひとのあやまちをゆるすことは、責め立てるより、安穏が保てる。人が慈
しみの教えを受けて、相手のことを思い、あやまちを指摘するなら、本気で争いになることをしないだろうし。



69 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 20:28:04 ID:bdbnZnqy
>>33
>神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ(スッタニパータ)

俺が釈迦の言葉で一番興奮したのがこれ。
俺も真理が知りたい。もし、観念論がこの世の真理ならば、
この世とは、実は、我々の意識が作り出した幻影のようなものなのかもしれない。
ならば、我々の意識が強く望んだことは未来はその通りに
なるのではないのだろうか。

我々人間が想像したものは、TV、ラジオなどを例にとるまでもなくほとんどが
実現している。これは変だとおもわないか?
それを想像したところ、それを実現する為に都合よく電波などもこの世に存在する。
きっと遠い将来、タイムマシンだって実現するに違いない。
時間をも制覇したならば、それはもう人ではないかもしれないが・・・・

自分が強く望み、それを信じて疑わなければ、その望んだ事は、現実でも、実現する。
なぜならこの世界は、我々の意識が作り出したものであるからだ。
イエスが起こした奇跡とは、実はそういうことだったのではないのだろうか?
この世が人間の意識が作り出した世界であるという事は、
量子力学の不確定性原理や、そこから導き出されるシュレティンガーの猫のパラドクス
などみても、いずれ科学的アプローチでも、解明されるときがくるような気がする。

70 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 20:28:46 ID:bdbnZnqy
さて、この世界が私の意識が作り出したものであるならば、「私」が死ねば、つまり
私の意識が消滅すれば、世界をも消滅するはずだが、そうはならない。
それはなぜか?それは私が死んでも他の人々、意識は存在し続け、その意識が存在し続ける限り
この世も存在する。じゃぁこの世で「私」というものはなにか?

それは、我々個人個人、それぞれ別人だと認識しているが、
実は意識は一本の線で繋がっており、もともとは同じ存在である。
そう考えると、人は輪廻を繰り返すというのも理解できる。
なぜなら、うまくは言えないが、俺もあなたも、元は一つの存在であり、つまりつきつめていうと同じ存在であり
この先生まれてくる人達も私であるからである。

自分で書きながら、なんだかわけのわからない
文章になっているような気がするが、
言いたい事は、今これを書いている「私」を認識している自分は、本当の私ではなく、
本当の自分とは、表現は少し間違っているかも知れないが、このみんなと繋がっている一本の線、我々個人として
認識している意識。煩悩としてこの世にでてくる前の状態。そう元の意識である。
この本当の自分という状態は、どういう常態かというと、現世で皆が持っている欲などは一切なく、
そうだな・・・・・それこそ仏教で言うところの、「空」という状態なのではないだろうか?

71 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 20:29:28 ID:bdbnZnqy
聖書には、人は生まれながらに「原罪」を持っているという。
この原罪というのは、人の妬み、嫉妬などの負の感情であり、性欲、物欲などの、あらゆる人の欲
のことであるとしたら、人は生まれながらに「原罪」を持っている
という事も理解できる。なぜなら人は、人として生まれてくる以上、必ずこれらのものをもって生まれてくるからだ。

それらの負の感情、あらゆる欲などを捨て去る事が出来、
本当の自分、仏教で言うところの「空」の境地に至れば、解脱をしたということになり、輪廻の鎖から解き放たれ、
輪廻という鎖から逃れ、本当の自分に戻れる。それを仏教では涅槃に入るといい、イエスは永遠の命を得る
または、神の御国入る。と表現したのではないだろうか?

などと思い巡らしていると、聖書の神についての一文がどうしても引っ掛かる。
特にこの世が我々の意識が作り出したものであれば、この一文をみて、
なんとなくだが、神と言う存在を理解しなければ、この世の真理に到達できないような気がする。

72 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 20:29:53 ID:bdbnZnqy
イエスは言った。
「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、
少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」

こうも言った
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、
業そのものによって信じなさい。」
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている

そして聖書に書いてある神についての一文。ヨハネによる福音書からの抜粋。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

神についての一文は、旧約聖書の冒頭にも同じような文章があるが、
一般的に信じられている神とは随分違うニュアンス、意味ありげな表現だと思わないか?
皆さんは、神の存在を信じるだろうか?釈迦は神の存在を感じたのだろうか?

73 :名無しさん@3周年:04/09/22 20:36:14 ID:Llm2uTC6
>>69
>我々人間が想像したものは、TV、ラジオなどを例にとるまでもなくほとんどが
>実現している。これは変だとおもわないか?

論理に飛躍がある。想像できるものだから、発明されたのだ。想像もできない
ものを発明できる人間はいない(嘘だと思うなら、やってみよ)。発見の場合は、
人間の想像とは無関係で、時には想像を絶するものだってありうる。

因果律を認めるならば、タイムマシンは原理的にできない。時間をさかのぼる
ことで、いくらでも「因」を無効にすることが可能になるから。他方、因果律を
否定すれば、科学が成立しない。科学とは、因果律の法則に対する知識だから。

74 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 20:42:30 ID:bdbnZnqy
よくよく観れば、俺の書き込みは激しくスレ違いだったかも知れない。
気を悪くした人いたら、すみません。
久しぶりに釈迦の言葉で興奮したもんで。前にも書いたが、僕は何もわかっていません。
まだ真理というものを捜している段階でして。
ですので、何を聞かれても、議論を吹っかけられても、わかりません。
僕は議論がしたいのではなく、求めているのです。
釈迦の残した言葉は大変興味があります。
スレ汚し失礼しました。


75 :名無しさん@3周年:04/09/22 20:42:44 ID:Llm2uTC6
>この世が人間の意識が作り出した世界であるという事は、
>量子力学の不確定性原理や、そこから導き出されるシュレティンガーの猫のパラドクス
>などみても、いずれ科学的アプローチでも、解明されるときがくるような気がする。

量子力学の不確定性原理というのは、ミクロな世界では、その物質の位置も
速度も、確率的にしかわからないということを言うんだよね。確率的とは、
一切の作為なしに、ということと同じだ。では、もし、人間の意識によって、
たとえば電子の動きを操作できるとするならば、電子の位置や速度の分布に
作為が現れてしまうだろう。それは、量子力学とは反する。

76 :名無しさん@3周年:04/09/22 20:46:23 ID:Llm2uTC6
>>74
別にいいんじゃない?
ちゃんと釈迦の言葉が引用されているし。
個人的には面白いテーマだと思うよ。
まあ、おかしいと思った部分は遠慮なく突っ込ませてもらうけど。

77 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 20:53:25 ID:bdbnZnqy
>>76
参考までに、あなたが気付いた真理というもの
があれば、聞きたいんだが、あればきかせてもらえませんか?
スレ違いだと思えるのならここにでも
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1069395679/

イエスの言葉を信じれば、あながちマーフィの法則も本当だと思えるんだよね(笑)

78 :76:04/09/22 21:03:30 ID:Llm2uTC6
>>77
そうだな。
キミが引用した「神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ」に
対応する聖句は、
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
だと思う。つまり、望むからそれが実現して雨が降るんでなくて、雨が降るのはすべて
慈悲の表れだと感謝して、ありがたく受け止めなさい、という考え方だな。

さっきの電子の話に戻るが、量子力学が言わんとしていることは、「神様は
万人に対して平等だ」ということだ。赤ん坊の上に巨大な岩があって、皆が
「落ちてくるな!」と望んだとしても、大声で祈ったとしても、物理法則に
従って、岩は容赦なく赤ん坊を押しつぶすのさ。ところが、それは無情でも
残虐でもない。すべては慈悲なんだ。神が、もし望まれるならば、物理法則を
捻じ曲げて赤ん坊を救うことは可能だからね。だから、逆に言えば、神は赤ん坊
の死を望んでおられる。そういう神の慈悲を受け止めることができる人だけが、
神を信じることができるのだと思う。

....不合理だと思うかもしれないが、信仰など、もともと不合理なものだよ。



79 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 22:19:10 ID:bdbnZnqy
>>78
レスどうも。
ハイそうですかと、肯定もしないかわりに、
否定もしないよ。
ただ、なにか俺個人的には違うと思ったのが率直な感想。
ま、俺も悟りなど開いていないし、
絶対俺が正しいとは口が裂けてもいえない。
現に頭では、先に書いたことを思っていても、実際、欲、つまり
自分の煩悩は捨てられないからね。

80 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 22:19:59 ID:bdbnZnqy
ところで量子力学の不確定原理の話は、電子は観測していない状態の時は
雲のような状態で、その場所は確立でしか予測出来ず、人が観測して、
つまり人の意思が働いて、初めてその場所が確定されるという話だよね。
確かに君の言うとおり、その観測者が観測して初めてその場所が確定されるという話であって、
その観測者がここにあると思えば、そこにあると、つまり未来をどうにでもできるとは言ってはいない。
しかし、その観測者が、ここにあるに違いないと、「何の疑いもなく」思えば(信仰)
観測の結果、そこにあり、シュレティンガーの猫の例ももおなじで、観測者が箱の中の猫は
死んでいるのに違いないと、「なんの疑いもなく」思えれば、そのとおりの結果になる。
つまりこの世界がわれわれの意識が作り出したものならば、その意識により、未来を思い通りにできる。
そういうことが、イエスの奇跡の正体であり、将来科学的アプローチでもそのことが解明できる
時が来るかもしれないと、いいたかったわけです。

81 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/22 22:20:28 ID:bdbnZnqy
少なくとも、人が観測するという「意識が働いて」初めて電子の位置が確定する。つまり人の意識が働いて初めて
未来が決定する。不確定性原理とは、そういう側面もあるんでしょ。
タイムマシンの話は、今の物理学でも、理論的には未来に行くことはできるよね。これは実験でも証明されている。
過去も観測するだけなら可能だよね。これも、実証済み。ただ今の理論では、過去の介入はできないようだけど。
いや理論的には、可能な理論はあるかもしれないが、過去への介入は、実験ではいまだ実証できていない。
これも人が強く望み、できるに違いないと強く思えば、できるかもよ。といいたかったわけ。
観念論とはそういうものでしょ。
これ以上はやめておきましょう。私の言うことが絶対正しいとは、悟りも開いていないし、科学の知識もうとい俺の現段階では、
俺自身確信もてないし
それで言いきれば、そこいらのエセ宗教家、詐欺師と変わらないからね。
ま、こういう考えの人もいるということで。
あと、釈迦の「神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ」の言葉は
釈迦がそう望めば、神よ雨を降らせよと言っているとおもったので、もし、
神の意思でそう望むのなら雨を降らせよという意味なら、私の思い違いですね。
そういう解釈が「正」ならば、少し残念。でも釈迦の言葉には大変興味があります。

82 :76:04/09/22 22:29:42 ID:Llm2uTC6
>>80
>その場所は確立でしか予測出来ず、人が観測して、
>つまり人の意思が働いて、初めてその場所が確定されるという話だよね。

ちょっとビミョーに違うんだな。
たとえば、電子の雲の中に手を突っ込むとするよね。
運良く電子に「当たった」としたら、そこに電子がポッと現れる。しかし、
運が悪ければ何も起こらない。その「運」が公正な確率で決まっているという
ことなんだよね。「人が観察して初めて場所が確定する」というのは正しいが、
「人が観察しても場所がわからない場合も多々ある」というのが抜けている。

もし、意識によって電子を「引き寄せられる」のなら、観察しようとすれば
いつでも電子が観察できるはずだよね。


83 :76:04/09/22 22:37:43 ID:Llm2uTC6
そうだな。プロのピッチャーが投げてくる剛速球を、素人がバットで打ち返そう
とするようなものだ。ほとんどが空振りで、観測できない。ごくごく稀に、
バットにすごい衝撃を感じる。それがボールに当たった証拠。わかるのは、
「この辺で当たった」という事実だけで、その速度の情報は観測によって乱される
ためにすでに失われている。イメージとしては、こんな感じ。

84 :名無しさん@3周年:04/09/23 04:42:40 ID:xGpJmmyj
ルカによる福音
17:20  神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、
     「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21  また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。
     神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

85 :名無しさん@3周年:04/09/23 04:49:09 ID:xGpJmmyj
お釈迦様の言葉。真我についてか?

あるでもなし、ないでもなし、あるでもないでもなし、でもなし



86 :テトラレンマ:04/09/23 10:34:11 ID:CRJv18AE
> お釈迦様の言葉。真我についてか?

> あるでもなし、ないでもなし、あるでもないでもなし、でもなし

それは、テトラレンマ(四句命題)と学者は呼ぶ。

しかし、釈尊はそういう表現はしていない。

釈尊と同時代のサンジヤの論法である。

釈尊の場合は『無記』というのが正しい。

87 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/25 07:45:17 ID:0jjr/+lL
〜もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に「抜け出して海に植われ」と言ったとしても、その言葉どおりに
なるであろう〜(イエス)
永遠の命の世界を知ったが、天国から戻されたような経験がある、私にとってこの言葉は真実である。だから、ブッダやイエ
スに興味を持つようになった。そうでなかったら、ブッダやイエスには興味はなかっただろう。

〜全世界は悪しき者の配下にあることを知っている〜(新約聖書) 〜悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世
界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう」〜(イエス)
私を含めて全ての人々は、自分の権威や栄華などを求める心、欲心に従って通常の人間の境地に至っている。

〜妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から解脱しないのである〜
〜世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが従属した〜
(ブッダ)


88 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/25 07:46:25 ID:0jjr/+lL
肉体があったから、妄執に従属しても元の境地に戻るだけで済んだが、死後、妄執に従ってしまったら、生まれ変ると説かれ
る。しかし、地上のものを貪り求め、自分自身の繁栄や、名誉や利権を求めるだけでは、良い運命となって生まれないだろう。
この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)を受け入れず、ブッダの言われるとおり、妄執に従ってしまったのである。
それまで、ブッダもイエスも全然関係のない存在だったが、それから生き方を気をつけなければならないと思った。その境地
には、〜この桑の木に「抜け出して海に植われ」と言ったとしても〜本当にできそうな境地でもある。ブッダが神通力がある
と言われていることは、完全に解脱したからと納得できる。妄執という激流を渡り終え、完全に解脱した存在は、奇跡が起こ
せるのである。〜妄執を断じ捨てることによって「ニルヴァーナ」と呼ばれるのである〜(サンユッタ・ニカーヤT)

私は聖者であると名乗る人でも、奇跡が起こせないなら聖者でもなんでもない。悪魔に従わなかった人は、奇跡でも何でもで
きる。私はその事実を知ったのだが、その事実を論証しようとする場合、信仰とはこの世より勝っている世界があるから信仰
するのではないか、聖者が奇跡を起こしても不自然ではないとしか言えないのだが。



89 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/25 07:47:23 ID:0jjr/+lL
聖者の教えは、多くの人々も、欲心や妄執(邪念)に従わず、永遠の命の世界にあるものに従わせることだろう。もちろん、
ブッダの修行僧は、生存しているうちに、ニルヴァーナを目指した。一切皆苦を悟ったブッダは、この世で最も安楽な道を
修行僧に説いた。そして、多くの人々は〜この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、
ブッダと真理の教えとに対して信仰心あり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならば、かれらは天界の生ま
れて、そこで輝く〜と。

〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意な
き慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはた
らきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう〜(スッタニパータ)
この世では慈しみが彼岸の境地に近く、その心を起こしたりすれば、決して死を味わうことのない永遠の命の世界に入る。
また、常に慈しみを大切にすれば、邪まな見解(妄執)などに囚われないようになる。人は死後、慈しみのような境地に安
住したままになるか、欲心があり妄執に従うようになるかに分かれるでしょう。死は永遠の命の世界からすれば、人間の肉
が思う錯覚に過ぎない。今現在の心の状況が死後も続く。だから、この世を思う心は無常であると心得て、〜上にあるもの
を求めなさい〜あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない〜(新約聖書)は、
永遠の命の国に生まれる方法なのである。
死なないからといって〜生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない〜妄執により、自己を断じた人は、取
り返しのつかない恐ろしいところに生まれるだろう。


90 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/25 07:48:44 ID:pr3W9r1p
〜天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも
行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたよ
うに、わたしたちの負債をもおゆるしください、わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください〜
この祈りは、真実を現し、全ての人々が苦難なく幸福になるよう祈り求める者は、悪魔に従ったわたしたちの負債がゆるさ
れ、悪しき者から救われ天国に生まれることができる、死後の事実から語られたものである。

悪魔(妄執)に従っていない天では、地上のものに心引かれることも、自分が偉いということもなく、自分の権威や栄華を
求めることもなく、すべて天のもので満足する世界です。人の創めは、神のもので満足することだった。しかし、神のよう
に賢くなることに人が魅惑された。人が悪魔に従い、人が賢くなって様々な人の手で作られたものが生まれた。だから、〜
あなたがたは上にあるもを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない〜は悪魔に従わない善の教えです。



91 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/25 07:49:27 ID:pr3W9r1p
しかし〜あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、す
べての人の僕とならねばならない〜(イエス)
自分の欲求(悪魔)のままで行動することなく、相手の意向に従ったり、施しをすること。人々を幸福にしようと心得て行
動したり、喜ばすよう心得て行動する。たとえば、人々が苦しむ病が治るようにしようと心得て医者になったり、人々の幸
せを思い政治家になろうとしたり。自分が金持ちになって、贅沢ができると思ったり、皆に尊敬されるからといって人の上
に立つ者(悪魔に従う者)となってはならない。人に仕えて自然に尊敬される者となれというようなことでよいでしょう。

人々を幸福にしようと心得て行動することに、悪魔を抑制する心が働き、また、どのようなこともできるという天の力のす
ぐ近くに心がある。世の中のためになると心得て働くことも、悪魔に従っていない。人の肉(欲求)なるものを喜ばすこと
も、悪魔に従っていない。人から自分のために利益を得ようとしか考えて行動しない人は、悪魔(欲求)に従っている。

地上のものに心をまず引かれ、そのことから思慮されることは、天に敵対する。天には地上のものに心を引かれることなく、
幸せであり、この世では、人々の幸福を願うなら天の想いとともにある。地上のものに心を引かれることは、どのようなこ
ともできるという天の力から遠く離れる。地上のものに心を引かれよという信仰を持つ者は、悪魔を信仰しているというこ
とになり、天に生まれることはないだろう。どのようなものでも、現世においては切望しているもののために、地獄や畜生
の胎内やヤマ(死者)の世界に生まれ、種々さまざまな苦難に遭うであろうと説かれる(法華経より)



92 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/25 07:50:18 ID:pr3W9r1p
〜何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である〜(イエス)
もし世間から、なんらかの利益を提供して欲しいなら、世間に利益を提供する者となることが大切でしょう。自分の欲求を
人々に押し付けるだけのことは、天の平等原則に反する。天では誰でも平等であるから、この地上でも、人に自分の欲求を
命令するだけの人間は、悪を行うことになる。欲求は悪魔に従って得たものであるが、人々の為に尽くそうとする心と行動
で悪を抑制する。

〜園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々―かれらの功徳は、昼夜に増大する。
それらの人々は、法に安住し、戒めを身に具えて、天におもむく〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜人のいない荒野に清冷な水があっても、それを飲まぬならば、涸れて消えうせるように、愚劣な人が富みを得ると、自ら
用いることなく、他人にも与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす。
牡牛のような人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におもむく〜(サンユッタ・ニ
カーヤT)

人々のためになるように、人々の快適な暮らしを目指し、人々の幸福をも心得て働く人々、それで糧を得る人々は、法に安
住し、戒めを身に具えているとブッダは説く。そして、天におもむくと。富を得たならば、他人にも与えたりして、また、
親族の仲間を養って、天におもむくと。ブッダは、自分を信じろと言うのではなく、多くの人々が善い生き方ができるよう
に教えを説く。善い生き方ができないから、多くの人々にも信仰をせよというものである。

〜律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。すなわち、律法を持たない異邦
人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである〜
(新約聖書)自然のままで、善い行いができれば、それでよしとするようなことも聖書には書いてある。



93 :名無しさん@3周年:04/09/25 08:56:41 ID:nfK82fRZ
>>92

>律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。
>すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい
>律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである

これはパウロ書簡だね。ある目的があって書かれたもので、文字通り読むべきじゃないと思うよ。
ある目的とは、イエスの死後にできた教団が、非ユダヤ人を受け入れる時に、ユダヤ人と同様に
割礼を強制するかどうかで、教団が分裂する大問題になった。パウロは、律法撤廃派の首領だった
ので、この手紙を書いて説得しようとした。だから、ここにあるのは、律法を廃止しても
よいということを説明するための「弁護士の文章」なんだよ。

94 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/25 18:52:23 ID:rVXTqpoT
>>93
MAR07:01 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
MAR07:02 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
MAR07:03 ・・ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
MAR07:04 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、
       昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。・・
MAR07:05 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
MAR07:06 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
MAR07:07 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』
MAR07:08 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

MAT07:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである

わかるかい?

95 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/09/25 18:55:02 ID:rVXTqpoT
>>87 >>88 >>89 >>90 >>91 >>92

ブラボー!!
今までの宗教板で、最高の書き込みを観た!

96 :93:04/09/25 19:26:56 ID:gF9KwY5K
>>94

異邦人(いほうじん)
 ギリシャ語では「諸民族」。ユダヤ人から見たユダヤ人以外の諸民族を指す語。
ユダヤ人は自分たちだけが唯一のまことの神の律法を与えられ、それに従って生きる
浄い民であり、他の諸民族は汚れていると考えていた。異邦人が神の民となるには、
ユダヤ教に改宗してユダヤ人となること、すなわち割礼を受けてモーセ律法を順守
することが必要とされた。パウロが自分を「異邦人への使徒」(ロマ1・5)とする
のは、たんにユダヤ人以外の民族に福音を宣べ伝えるために召された使徒という
意味ではなく、異邦人が異邦人のままで、すなわち割礼を受けてユダヤ教に改宗し
なくても、キリストを信じることによって神の民となるという福音の原理を確立
するために召された使徒という意味である。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Romans_terms.htm

97 :93:04/09/25 19:34:11 ID:gF9KwY5K
>>94 こっちの方がいいかも。

割礼(かつれい)
(前略)
ユダヤ人は生後八日目に割礼を受けた(フィリピ3・5)。異邦人のユダヤ教への改宗には割礼を受けることが求められた。
ユダヤ教会堂にはユダヤ教の教えに引かれた異邦人が参加したが、割礼を受けるまでは正式のユダヤ教徒とは認められず、
「神を敬う者」と呼ばれた。ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、異邦人を「無割礼の者」と呼んで、不浄の民であるとした。
異邦人がキリストを受け入れて信仰に入ってきたとき、ユダヤ人指導者の中には、異邦人信徒も割礼を受けてユダヤ教に
改宗しモーセ律法を順守することを要求する勢力があった。パウロはこの要求を断固として退け、異邦人は割礼を受け
なくても、すなわち異邦人のままでキリストの信仰によって義とされ救われることを主張した。それで、パウロ書簡で
「割礼」の語は、割礼と律法順守を要求するユダヤ人指導者に反対して信仰によって義とされることを主張するガラテ
ヤ書とローマ書第一部(1〜4章)に集中して出てくることになる(全部で35回の中23回)。もちろん、パウロは
ユダヤ人に割礼を廃止することを求めてはいない。ユダヤ人はユダヤ人のままで信仰によって救われるのである
(ロマ3・30、コリントI7・18)。パウロにとって割礼は、身体に受ける割礼ではなく、預言者が語ったように
「心の割礼」でなければならないことになる(フィリピ3・3、ロマ2・25〜29)。



98 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/26 09:39:40 ID:iikONFsO
人は、清くなろうと心得て何かを唱える。また祈り、清くなろうとする。しかし、本当に清くなろうと祈り求めるならば、〜
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように〜と祈り求めることなのである。天のように、この地も一切、憎し
みあうことのないように、敵対することがないように、ゆるしあえるように、隣り人を愛する人が多くなりますように、親切
な人が多くなりますように、困った人、苦しむ人が存在しない国になりますように、その人たちを助けられる人々が多くなり
ますように、御名があがめられ、地上も欲望の貪りではない、平安な国がきますように期待して祈り求めること。

それはなぜか、永遠の命の世界にある平安の境地〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜に
通じ、人の心は清まる。天にあるものは清浄であるから、そのように祈り求める人は清まる。そして、〜この山に、動き出し
て、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成る〜ぐらいの、どのようなこともできるという天にあるもの(それは、
肉体が存在しない世界で完全となるから、境地で天を知る、しかし、聖者は肉体があるうちに天とひとつになった)に近い心
となるから、自分の災難ぐらいはどうにか回避できるかもしれません。自分を愛する心を捨て、地上を貪る心(欲心)を捨て、
人々の幸福を願うような人は、決して死を味わうことのない、永遠の命の国に入ると解すことができるのです。

様々な唱えごと、呪文などを唱えても、それらは地にしか存在しないものだから、永遠の命に通じ、清くなること、自分を守
れる力が期待されません。自分の命のことを願うことなく、人々の幸福を願うような祈り求め方をまず行い、心を清めること、
これがひとつの道でもあるのです。

99 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/26 09:40:32 ID:iikONFsO
〜主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい〜何事も思
い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよ
い。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあ
って守るであろう〜

しかし、「事ごとに、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」とあります。
聖霊によってイエスを信じた人は、感謝をもって祈り、求めるところを神に申し上げるがよいと。

地上でイエス・キリストが、天で行われるように、神の奇跡でさまざまの病苦に悩む人々をいやし、盲人など多くの人々を見
えるようにしました。困ることもなく、苦しむこともなく、病むこともなく、全ての存在を平等に幸福にされる、天の父と天
を地上で見えるように現したのです。天国は、全ての存在が幸福になり、そこで慈しみをもって喜ぶのです。誰をも責めるこ
となく無限のゆるしの世界です。思い煩いなど一切ありません。地上でも不満を持たず生き、感謝をもって祈り、天国で願い
が叶えられるように、地上でも感謝をもって神に求めるところを申し上げるがよいと。天国と同じことをしなさいと言ってい
るのです。天国では、その父のもといつも喜んでいる。地上では、父を現したイエス・キリストにあって喜びなさいと。



100 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/26 09:42:25 ID:iikONFsO
イエスがあわれみの奇跡を起こし、私を信じなさいと言ったのは、罪過をなくすためでもあり、永遠の命の世界にある慈悲や、
あわれみの心とともに天国で平安を喜んでいるからです。
さまざまの病苦などに悩む人々を神のわざでいやし、多くの盲人などを見えるようにされたイエス。天の存在は慈しみの心と
ともに、その世界である父を喜んでいる。主にあっていつも喜べば、永遠の命に近いのです。

〜一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない〜(サンユッタ・ニカーヤT)
〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ〜(スッ
タニパータ)

天にいます父よ、この地上も病苦のない世界となりますように、苦しんでいる人々がなくなりますように、〜みこころが天に
行われるとおり、地に行われますように〜 霊とまことをもって祈り求めれば、慈しみの心を起こせるのです。

ながながと祈り、呪文などを唱えても、それは地上のことであり、天につながらない行為。この上なき最上の喜びの境地ニル
ヴァーナに遠く、永遠の命の世界に入れない。天では、くどくど祈ることも、呪文などを唱えることもしないから、死後、迷
って悪いところに生まれるかもしれない。

101 :自由:04/09/26 09:42:44 ID:+ezCgNCn
<キリスト教・掲示板>
http://www.bigcosmic.com/board/f/board.cgi?id=xvssv&id=xvssv

   ・・・

<自由共和国>
http://jbbs.livedoor.com/study/3876/

102 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/26 10:33:45 ID:po9Kgo4+
「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを
見ることがない。この身は泡沫のごとしと見よ。この身はかげろうのごとしと見よ。この身をこのように観ずる人は、
死王もかれを見ることがない。」感興のことばより

 ―すべての存在は、水の泡か陽炎のごとし、一切は虚妄である―
このように観じて、安楽な境地ニルヴァーナに到達する。全てこの世のことは、虚妄であると観じ、安らぎの境地を
得る。だから、世の中は泡沫のごとしと見よ〜を観じた時、人は清浄となる。

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」ブッダのことば
ニルヴァーナの境地は、至上の喜びである。「一切の形成されたものは苦しみである」その安楽な境地のもと、この世
全ては苦しみであると悟る。それらから、解き放たれたような開放された境地を知るだろう。この世のものに喜びを見
出すことなく、ただ平安の境地を喜び、安穏であること、安楽であることに喜びを感じる境地である。だから、現世で
でも、人々の平安を願い、幸福を喜び、安穏であること、安楽であることを心得て、行動する人は彼岸に近いのである。

「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。」ブッダのことば
この世のもので言い現すことのできないその境地は、自然の中で楽しむような心に近い。だから、自然の中で楽しみ、
静けさを喜ぶような人は、清浄となる。

103 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/26 10:34:37 ID:po9Kgo4+
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量
の慈しみのこころを起こすべし。〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。〜この世で
は、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」ブッダのことば
白と黒(善悪)にも囚われることがない。敵意もなく、怨みもなく、憎しみもなく、冷酷で残忍でもないその境地は、
一切を識別することなく、全てを慈しむ。自然の中で楽しむような心で、人々を慈しむ。人はそれがなかなかできない
のであるが、人を責めることなく、ゆるすことはできるだろう。何事でも寛容であるべきだ。彼岸は決して、人を自分
のために責めることがないのだから。人を謗ることもない。

「一切の形成されたものは無常である」諸々のつくられた事物は、すべて無常である。生じては滅びる性質のものであ
る。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である―人は、この世のこと、この世の様々な現
象に囚われ、喜び、悩み、また悲しんだりする。それらに対する心の動きは、ニルヴァーナのその境地からすれば、苦
しみに過ぎない。それらに囚われる心も無常であると心に思うならば、人は苦しみから遠ざかる。「世の中は泡沫のご
としと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。」そのように観ずることができれば、この世の様々な現象についても
苦悩を受けることも少ないだろう。

104 :西村博之の親父にFAXする会:04/09/26 11:01:14 ID:YthpSKKA

(共同通信)北海道警生活環境課と札幌・中央署は六日、インターネットを利用し
不特定多数の人から金を集めていたとして、出資法違反(預かり金の禁止)の疑い
で、
札幌市手稲区前田9条12丁目4−15、自営 鈴木、公一容疑者(48)を逮捕した。
調べによると、鈴木容疑者は株式会社タントの事業資金として、、インターネットに
開設したアンチネットワークビジネスオーナー募集」というホームページで、株式会
社タントのオーナーを募集し、利用者百人以上から計二千三百七十五万円を会社の
銀行口座に振り込ませた疑い。新規事業への投資をにおわせ、一口三万円、
最高五口までとして募集。「一年後には配当金プラス元金を返還することを
保証します」と広告していた。同課などは、鈴木、公一容疑者が三十七都道府県の
約百九十五人から、計約三千二百万円を集め、会社の運転資金に充てていたとみて
裏付け捜査を進めている。(共同通信ニュース速報 2004 09/20 18:17)


105 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/26 19:16:08 ID:iO+Hjtaw
「一切の事物は我ならざるものである」非我なるものを我と思いなし、或るものを、ああだろう、こうだろうと考えて
も、そのものはそれと異なったものとなる。何となれば、その考えは虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるもので
あるから。
      「安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。」ブッダのことば 
この世のものに、現象に心を動かされ、思い悩む。それは彼岸の本当の我ではない。本当の我は、こだわりがない。思
い悩むことすらない。その自己が自分ではないのに、どうして他人が自己であろうか。他の人のことは、その人のこと
として、その人の意向を尊重してあげること。「牛飼いダニヤ―わが妻は従順であり、貪ることがない〜わが意に適っ
ている ブッダ―わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。」
「子ある者は、子について憂い、牛のある者は、牛について憂う」人をわが意にかなっているから良いとすることなく、
自分をよくととのえること。その人の意向に適った存在でなくても、自分を愛するものでなくても、人に尽くせるよう
になればよいわけだが。互いに思い通りになった時、結びつき、思い通りにならなかったら別れる。それらのことが起
きない。
もちろん世間も我でない。すべてわが意に適っているものではなく、自分の思い通りにならないことも多いと予め心得
ておくならば、様々な困難に対して苦悩も少なく、世の中を遍歴することができるだろう。


106 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/26 19:18:53 ID:iO+Hjtaw
「世の中は泡沫のごとしと見よ、この身は泡沫のごとしと見よ」それが彼岸の我である。
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」それが彼岸の我である。
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし」それが彼岸の我である。
「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである」それが彼岸の我である。

この世も、世の中も、人も、その他執着する拠りどころとされるものも、この身さえ彼岸の我ではない。ニルヴァーナ
は執着する拠りどころもなく、安楽である。何事もなく、不満もなく、平安を喜んでいる時は、人は安楽である。

妄執(欲心)がニルヴァーナのその境地を奪う。人々は、自分の欲心のために生きる、そのような心を得た。もしも、
妄執に従わなかったら、地上のものを喜ぶ心は得てないだろう。しかし、世間を快適にしようとする心、人々を幸福に
しようとする心、安穏であり、安楽にする心に従い、精励して努め励むならば、悪より善に従っている。
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。」
ブッダのことば

慈しみの意を心得て、粗暴・残酷、友を裏切り、怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、怨み、敵意、憎しみ、謗り、
盗み、詐欺、だますことをしてはならない。

「日も盛りの時、鳥どもが枝にとまっているときに、大きな森が鳴りひびく。それは、わたしには楽しみと思われる。」
神々との対話 自然の静けさを一番の喜びと感じている人は、彼岸に近いものを楽しみ、死後も生まれない人となるだろ
う。人が彼岸に近いものを好むまま、この世を貪る心、快や情欲などの妄執の因を乗り越え、彼岸に至る。


107 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/26 19:59:09 ID:O/O1XkQW
>>101
>>もしあなたが、一度神の接近を体験したなら、その感銘は終生忘れることが出来ないだろう。
  
  私もある体験をしたが、その体験は忘れることはできない。

>>祈りによっても、儀式によっても、または断食に〜招き寄せることはできない。

  求めずして突然に、宗教は関係なく、その体験をした。

>>真の神の接近は、この上ない健康の実感と来世の前味とをあとに残すのである。

  死なないと感じられたその境地は、この上なき最上の喜びの境地であった。
  永遠の命の世界は、このような感じであると知る。

イエスもブッタ(特に原始仏教)も、その世界を現そうとして、また、人がその世界に近づくように教えを説いたと知る。



108 :実行委員長:04/09/26 21:03:46 ID:kI4K+/s+
聖者になる方法を教えよう、舌を上顎につけなさい。食事は両刃の刃のように気をつけなさい。

これを書けない人は聖者ではありません。わたしだけです。

この功徳によってわたしは、仏陀に成って死ぬことができる。

109 :名無しさん@3周年:04/09/27 07:27:27 ID:D2fEs5A9
釈尊とイエスの教えの共通性を探っても、あまり意味はないのではないでしょうか。
両者の共通性は、教えを超えた次元にあると思います。
イエスとの共通性を考えるのであれば、たとえば親鸞などとのほうが
興味深いのではないでしょうか。

110 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/28 18:36:33 ID:rGERZurn
〜偶像なるものは実際は存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている〜父なる唯一の神のみ
がいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する〜
〜肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、
分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである〜
〜だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝ほかな
らない。これらのことのために、神の怒りが下るのである〜(新約聖書)

偶像なるものは実際は存在しないこと、貪欲は偶像礼拝ほかならない。

偶像ではなく、さまざまの病苦などに苦しむ人々をいやし、また多くの盲人などを見えるようにしたイエスを主としてあ
がなえということです。永遠の命の国では、偶像なるものは実際は存在しないが、全ての存在を幸福にされる父を敬えと
いうことです。盲人で口のきけない人を神のわざで癒したイエスをまことの存在とすることで、人は罪がゆるされ神の国
に入る。〜一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない〜

その人は、地上でまこととしているのと同じように、永遠の命の国で、病苦もなく、苦しむ存在のない世界を喜び、その
世界をまこととするのです。

111 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/28 18:37:21 ID:rGERZurn
〜また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな〜
〜律法学者に気をつけなさい〜広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えの
ために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう〜(イエス)
〜多くの呪文をやたらにつぶやいても〜内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている。王族でも、バラモンでも、庶民でも〜
下水掃除人でも、精励してつとめ、熱心であり、つねにしっかりと勇ましく行動する人は、最高の清らかさに達する〜
(サンユッタ・ニカーヤU)

呪文のようにくどくどと祈っても、それは何もならないことだと。天では、呪文を唱えないからあたりまえのことです。
〜みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように〜と、この地も天上のように、困る人、苦しむ人がないよう
に、争いもなく平安になるように祈れということです。それが天に通じるものだと。

〜究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏
であれ、安楽であれ〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇
高な境地と呼ぶ〜(スッタにパータ)
〜敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ〜いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさ
け深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ〜(イエス)

地上で慈悲深い神を現したイエスをまこととし、あがめ、天上の言葉を受け入れ、またそのようになるように心得、慈悲
の祈りによって、永遠の命の国に入る。今、まこととしていることは永遠にまこととなり、今、祈り求めることは永遠に
なるのです。

―教えは、天上のことを明らかにし、人のただ中にあるものが、その世界に近づくようにすることです―


112 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/29 20:53:18 ID:x3HvKQ3X
〜あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です〜麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あな
たは善悪の両者に汚されません〜(スッタニパータ)
〜へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたの目が開け、神のように
善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」女がその木を見ると〜賢くなるのは好ましいと思われたから〜
(創世記)

人は神のもので満足することなく、善悪の両者に汚され、賢くなって人の手でつくられたもので生活をするようになった。
賢くなった人間自体が悪だから、天上にあるものを善とする。或いは人類の最初を善とする。

〜神は言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべ
ての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」〜

仏教には、神々がでてくる。その神々を信仰してもだめで、人間が天の共通意思を身に着けることで、天上に生まれること
ができる。その天の共通意思が慈悲。天では、人間の意思もないから、慈悲を身に着けること。慈悲もなく、この世のもの
の貪りを好む者は、また肉となって生まれる。


113 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/29 20:54:04 ID:x3HvKQ3X
地上のものを貪らないこと、自分を愛することなく、自分を犠牲にしてまで他を慈しむ、自分の損益、有不利益を考慮せず
人に親切にしたりすることなどが、信仰から学ぶべきこと。
様々の病苦などに苦しむ人々をいやし、また多くの盲人などを見えるようにしたイエスを主としてあがない、その国をまこ
ととし、〜あなたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない〜(新約聖書)か、ブッダの
修行僧のように、一切の所有物を捨て、世の創め、神の創造したものに満足するように修行するか。

〜かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである〜(スッ
タニパータ)
〜人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないか
らである〜(ダンマパダ)

彼岸に至る道は、世間に対して愛着なく、自分の所有物に対しても愛着はない。諸々の欲望に関する貪りを捨て、自らを制
し、心を静めている。ブッダの彼岸のこの世での行いによっての現しかたは、世間から離れ、森の中に住み、心を静め、大
いに自ら満足すること。そして、世の創めに戻るような行いでもあるだろう。そして、多くの人々はそれを善とすることで、
心が清まる。地上のもの、この世のものの貪りによって不浄となる。


114 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/09/29 20:54:44 ID:x3HvKQ3X
〜水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、種類の区別のあることを知れ〜翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、種類の区別
のあることを知れ〜小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも、種類の区別のあることを知れ〜腹を足としていて背の
長いはうものにも、種類の区別のあることを知れ〜
〜いかなる生物生類でも、怯えているものでも強剛なものでも〜大きなものでも、中くらいなものでも〜目に見えるもので
も、見えないものでも、〜これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ〜(スッタニ
パータ)
神が〜これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものを治めさせよう〜(創世記)とした
のは、動物たちを「幸せであれ」と人が思い、かわいがって治めさせようとした。

そして、神が様々な生類を造ったのは、人間は人間として同じ形であり、互いに差別をしてはならないということだろう。
〜これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろ異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろい
ろと異なっているということはない。髪についても、頭についても、耳についても〜他の生類の中にあるような、生まれに
もとづく特徴の区別は人類のうちには決して存在しない〜(スッタニパータ)

神のもので満足することなく、人の手で作られたものが必要になった人類、〜何事でも人々からしてほしいと望むことは、
人々にもそのとおりにせよ〜その律法に従うこと。自分を愛するようになった人、〜自分を愛するように、あなたの隣り人
を愛せよ〜を大事な戒めとすること。自分を愛するだけの人は、サタンに従っている。



115 :名無しさん@3周年:04/09/29 23:10:03 ID:Jy2Mz3G1
598 :名無しさん@3周年 :04/05/27 19:03 ID:SzhgiZaK
97 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY :03/05/11 22:42 ID:j/WVk7VZ
>>95
>そのような闘争的な思想こそ、仏教のもっとも嫌うものではないでしょうか。
それは私の思想ではなく、行動規範であり、ライフワークです。仏教的であるとは思っておりません。

>誤りは指摘すればいいだけの話です。無知を蔑むことは卑しいことだと思います。
無知を蔑んでいるわけでは有りません。誤りを指摘することに意味が無いので、その主張を
根底から否定し、叩き潰す事に意味があるのです。

107 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY :03/05/11 23:42 ID:XWJpil2v
>>101
> なぜ本当の仏教を標榜しているあなたが仏教の教えに背くようなことをするのでしょうか。説得力が
>ないのではありませんか?
わたしは偽善者ではありません。カルト被害に遭う人を見捨てられないだけです。破邪、
折伏の精神と同じですよ。ま、罵倒雑言などはネット人格を装っているだけですがね。
私のカルト攻撃を邪魔するものは、たとえ誰であっても叩き潰します。伝統教団の僧侶で
あっても私の社会的地位を駆使して社会から葬ります。以前、梶山スレで私にチョッカイ
を出そうとしたもと先輩がいましたが、こんど同じことすれば、完全に社会から排除します。



116 :名無しさん@3周年:04/09/29 23:14:09 ID:Jy2Mz3G1
712 名前:名無しさん@3周年 :04/05/29 02:55 ID:onsfSFFW
>597 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :04/05/27 18:40 ID:grPEZwPm
>@NiftyのFSHISOに転載許可願いを代理人を通じて(私は退会処分になりましたから)出しております。

これを読んでお前がIだとすぐに分かったよ。
お前まだこんな態度を取ってるの?
Nif時代にお前に誰も付いて行かなかった事をここの連中は知らないもんなあ。
人へのアドバイスが下手すぎて、気に障るとすぐに脅したり馬鹿にするのは
相変わらずだな。
最近はまだ、社会的に抹殺する。だのとほざいてるのか?
いい年なんだから丸くなりな。
修羅になるんだったらここの口調で、お前の嫌いな大乗非仏説を唱えてる学者に、
ここと同じ口調で言ってみなよ。

リアル世界はうまくやってるのか?
仕事じゃなくてあっちだよ。なあ。



117 :名無しさん@3周年:04/09/29 23:38:25 ID:5q5VOgns
637 名前:電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :04/05/28 16:04 ID:c75jkBig
【スッタニパータについて】
中村元先生など、これらの経典について原始仏教として位置づけられ、散文の部分は韻文のそれよりも新しく
成立しているとの見解を示されました。中村先生はスッタニパータに説かれる無我説には消極的に言及するのみ
でしたが、お話の上では「あれはジャイナ教からの影響は否定できんな」と仰っておりました。

まさにその通りで最新の研究では散文と韻文の前後は見直され、ジャイナ教からの影響も多く指摘されております。
精度の高い文献学や思想史研究を基にするとだんだんと原型に近づくことができます。

ジャイナ教が混入している経典をありがたく思ってその通り受けとりたいのならそれでもいい。しかし、再度汚染する
ことはまかりならん。現在存在する仏教教団のすべてはこの汚染されきった仏教であることに変わりありません。




118 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/30 21:48:49 ID:hPDyxXCG
「五つの覆いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)の
うちに心をしっかりと安立し、七つのさとりのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しいさとりを完成しまし
た。」ブッダ最後の旅

〔七覚支〕@択法  教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる
     A精進  一心に努力すること
     B喜   真実の教えを実行する喜びに住すること
     C軽安  身心をかろやかに快適にすること
     D捨   対象へのとらわれを捨てること
     E定   心を集中して乱さないこと 
     F念   おもいを平らかにすること

択法 教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる。
   ひとつの経典から真実を選んだ場合、それは他に意図することがあり、書かれただけのものかもしれない。だから、
   それは偽りの教えかもしれない。
   また、仏教は道理の教えであり、ブッダが道理で人がわかるように教えられたものであるから、つじつまの合わない
   もの、わけも分からず、他人に依存して信じなくてはならないもの、わけも分からず、信じるだけのものは偽りの教
   えとして捨て去ったほうがよい。
   彼岸に忠実でなく、無理な道理の説明であるものは、避けたほうがよいか、捨て去ったほうがよい。



119 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/30 21:50:03 ID:hPDyxXCG
七覚支、四念処は、感興のことばにも書かれている。
「四念処を楽しみ、またさとりを得るための七つのよすが(七覚支)を楽しみ、」感興のことば 択法もひとつの楽しみと
して行えばよいだろう。

〔五つの覆いを捨て〕ブッダのことば 感興のことば ブッダ最後の旅など
@貪欲 A瞋恚 B有身見(我とか我がものとかいう観念を離れぬ我執)、戒禁取見(誤った戒律や禁制を正しい修養方法
であるとして執着すること) C疑い

 @貪欲はほとんどの経典に書かれているだろう。Aも多くの経典に書かれていると思われる。
 B我とか我がものとかいう観念を離れよ、という教えも複数の経典に書かれている。

@A彼岸は欲望も怒りも全くなく、平安の境地を喜ぶ世界だから、貪欲を捨て去ること、怒らないことは教えとして、あた
りまえのこと。
B「『一切の事物は我ならざるものである』(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり
 離れる。これこそ人が清らかになる道である。」真理のことば
 「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。」「この身は泡沫のごとしと見よ。この身はかげろ
 うのごとしと見よ。」―すべての存在は水の泡か陽炎のごとし、一切は虚妄である― このように観じて平安の境地に至
 る。ニルヴァーナでは、全て我とか我がものとかいう観念がなくなって安楽な境地に至るのである。全てに遠ざかり離れ
 て安楽となる。今現在、我とか我がものとかいう観念を離れれば、それだけ人は清浄である。

経典を呪文のように唱えるより、「世の中は泡沫のごとしと見よ、この身は泡沫のごとしと見よ」そのよう観じている時間
を持ったほうが、人は清浄となる。

120 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

121 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/02 09:25:53 ID:Nt2e8lSP
非我なるものを我と思いなし、或るものをああだろう、こうだろうと、考えないこと。(ブッダのことばより)悟りの世界
は何も迷わない世界。彼岸は迷わず安楽である。一番よいのは瞑想などをすることがよいだろうが、日々の生活のうちにも、
その理法を取り入れる。
非我なるものを我と思いなし、他人のしたことしなかったことを見て、人を批評する。「他人の過失を見るなかれ。他人の
したことしなかったことを見るな。ただ自分のしたことしなかったことだけを見よ。うるわしく、あでやかに咲く花でも、
香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。」真理のことば
人の行いを見て、ああだろう、こうだろうと考えても、迷いが増すばかりだ。自分の行いについてだけを見る。人の行いを
見て、人を批評し、自らの行いを正さない人々が多ければ、良い世間にもならない。

ブッダは、彼岸を通して、多くの人々の益になることを思われた。修行僧を通して、世間のためになることまで思われた。
「この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、徳行を
達成する。」感興のことば
修行僧は、悟りを目指して、自分の身をよくととのえる。多くの人々は、不完全ではあるが、ブッダのことばを知り、気を
つける。出家修行に依らず、ブッダのことばを心に留め、自分の身をよくととのえようとすれば、それで、この世で悪を行
わず、諸々の邪まな見解から離れ、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りから離れ、天に生まれる
ことが確実になると思われる。

122 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/02 09:26:55 ID:Nt2e8lSP
出家修行僧は、天界のきずなさえ、すべてのきずなから解き放たれる。日に一食しかとらず、自然の中で瞑想する者は、霊
体にさえ生まれない。仏教からブッダの修行法以外で、それができるとする者は、ブッダを尊敬せず、また邪道を教える者
である。私は、「ブッダと同等になりました、この世で完全に解脱し、生きながら彼岸に到達しました。」と言う人も、偽
り者である。神通力が行えるか、天から雨を降らせるか、人々が行えない不思議な能力を現せるか、偽りを語る者は、でき
ないのに私は完全に解脱しましたと語る。そして、人に偽りを語り、天に生まれることさえできないようにする。

仏教を行おうとする人は、経典から学ぶべきだ。七覚支に択法があり、真実なるものを選びとればよい。そして、道理を考
えて行えばよい。その元となるものは彼岸だ。境地については、自然の中で静けさを楽しむような境地。これも、修行僧の
行いをみればわかる。慈しみも、この世では崇高な境地であると書いてある。人は好むまま、喜ぶまま、その世界に生まれ
る。諸々の欲望に関する貪りを行っているがまま、諸々の邪まな見解から離れず、また、彼岸にない行いを宗教的行いとす
るまま、また、彼岸にない諸々の邪まな思いを抱くまま、天にも生まれることができない。それらは、妄執となって、天界
のきずなを断つものなのだ。

「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが従属した。」
諸々の悩みさえ、妄執に従ったがために生じたものである。悩みもこの世にあって、汚れのうちにある。
「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。」そのように観ずる時を持つことも、人は汚れを取り
除くために必要だと考える。 

123 :名無しさん@3周年:04/10/02 10:37:59 ID:98pdn/14
妄執と欲望は違いますね

ところが後の人が妄執と欲望を一緒にしてしまいました

そこから誰も悟れなくなりました

124 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/02 16:36:46 ID:/VNDkRsZ
ニルヴァーナは欲心も何も無く、快楽や享楽もなく、清浄な境地である。ひとつの欲望が妄執を生み出す。人はニルヴァーナ
の境地も知らないし、欲望が妄執になることも知らない。
 


125 :名無しさん@3周年:04/10/02 18:53:51 ID:taGdf9lx
ブッダの言葉に自分のためだけに○○しなさいみたいな言葉ありますか?

126 :名無しさん@3周年:04/10/02 19:13:36 ID:LXFwLKMO
「原始仏教・オカルト・霊の世界、手かざしの奇跡・フォットンベルト・大本から救世教、
正長の家・古代文字・ムー大陸」

「神理研究会HP」 管理人 千鳥

http://f35.aaacafe.ne.jp/~shinri/


127 :実行委員長:04/10/02 20:54:34 ID:1z8aFFzi
止息法をインターネットに出した功徳で、仏陀になって死ぬことができる。

128 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/02 22:08:58 ID:NZnQSqmt
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」彼岸は、この世のものの喜びを求めることなく、
むしろ一切皆苦として厭い、だだ平安の境地を喜び、その境地で幸福であること、安穏であること、安楽であることを喜ぶ。
人々は妄執の因となる、欲心に従うことなく、人々を快適な暮らしにしようとする心、幸福にしようとする心、安穏にしよ
うとする心、安楽な暮らしにしようとする心に従って仕事に従事すればよいでしょう。自分の所得を増やすことを心得たり、
自分の快適な暮らしのためだけを願い、世の中から利益を得ようとしてはならない。

「自分の所得だけで満足する者となろう」法華経
この世で快や享楽、豊かさを求めても、苦悩を追うばかりだ。「愛欲も、憎しみも、愚かさも、羨望も、嫉妬も、中傷も、自
惚れも、傲慢さも、虚勢も害うことがないであろう」法華経
「人間たちはまこと快楽のために、また愛欲の因縁のために、種々の苦悩に遭遇しているのである。かれらは、現世において
は切望しているもののために、また来世においては獲得しようとしているもののために、地獄や畜生の胎内やヤマの世界に生
まれかわって、種々さまざまな苦悩に遭うであろう」法華経
「また、いろいろな仕事に従事し、種々さまざまな意図をもってそれぞれに良心による判断に従って行動する人々に、善根を
生じさせようとして、如来は種々の経説を種々の信憑すべき根拠に基いて語るのである」法華経

その良心が、自分の欲心に基くものであってはいけないのです。「この世は、様々な快楽や享楽があって楽しい。私はその楽
しみを追い求めるために仕事に従事し、私の所得を増やし、私の繁栄のために生きる」これは妄執の因となる。


129 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/02 22:10:04 ID:NZnQSqmt
人々は、ブッダと修行僧から習い、自分の身をよくととのえて、自分の所得に満足しながら、人々のためを思い尽くすように
なったり、気前よくわかち与える者となることを善なる戒めの方向として心得ておくべきだろう。自分の身をよくととのえて、
悪を出さない者とまずなること。たとえ僅かな賃金でも、精励して努め、熱心であり、つねに勇ましく行動する人は、最高の
清らかさに達する。

「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々―かれらの功徳は、昼夜に増大する。
それらの人々は、法に安住し、戒めを身に具えて、天におもむく。」神々との対話 「愚劣な人が富みを得ると、自ら用いる
ことなく、他人にも与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす。牡牛のよう
な人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におもむく。」神々との対話

富を得た人は、父母や妻子、使用人、友人、同輩を楽しませ、喜ばせよ、他人に与えよとあります。人を自分の意のままにし
たならば、今度は、人々を現実的に楽しませ、喜ばせること。また、他人にも与える。人はこの世で幸せになりたい、その希
望を行為によって叶えてあげること。人々を幸福にしようと働き、その結果得た収入で、父母や妻子を喜ばせ、他人にも与え
れば、十分善いことを行っているだろう。しかし、全ての人々が、順調に生きているとは限らないが。

ブッダは、全ての人々が行える完全な善を最も重んじ説かれる。完全な善は彼岸であり、そこには悪が一切存在しない。人々
はそこから学び、その人の状況に応じて、自己こそ自分の主であるとして、自分の善を行えばよいだろう。たとえ手足がなく
とも、口が利けず、耳が聞こえず、目が見えなくとも、善は行える。


130 :実行委員長:04/10/02 22:28:58 ID:1z8aFFzi
四念観が、仏陀になれるのか証明できる。

131 :源伸:04/10/03 23:41:50 ID:AfzbU959
原始仏教におきまして、「スッパニータ」と崇教真光の「万教帰一」
とは同じかどなたかご存じでしょうか?

132 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/07 21:51:45 ID:e5nJ5qxd
「向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、
相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。

それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法
をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」ブッダ最後の旅

  −他のものをよりどころとしないでいるということは−

(1)身体について身体を観じ
(2)感受について感受を観察し
(3)心について心を観察し
(4)諸々の事象について諸々の事象を観察し
熱心に、よく気をつけて、(正しく)念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
(正念とは四念処のことだろう)


133 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/07 21:52:25 ID:e5nJ5qxd
四念処
(1)この身は不浄である。
(2)感受するものは苦である。
(3)心は無常である。
(4)すべての事物は無我(非我)である。
 という四つのことを心に思い浮かべる修行。

(1)この身は不浄である
「人間の身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここか
しこから流れている。このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するなら
ば、かれは見る視力が無いという以外の何だろう。」ブッダのことば

「この身は泡沫のごとくである、かげろうのごとしと見よ」身体をこのように観じて清浄となる。その身
体を綺麗である、偉いと思うならば、清浄なニルヴァーナの境地と対立する。


134 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/07 21:53:06 ID:e5nJ5qxd
神通力により不思議な能力により、できることは地上を望む欲望によって失われた。妄執により能力を持た
ぬ境地に至ったのである。一切の人々は、地上を望むが故に不思議な能力を持ち合わせていない。

「聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』
とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、
妄想分別におもむかない。」
「自分を他人と『等しい』と示すことなく、他人よりも『劣っている』とか、或いは『勝れている』とか考
えてはならない。」ブッダのことば

自分を偉いとも、他人と等しいとも、劣っているとも、勝れているとも考えてはならない。彼岸には、それ
らの不浄な思いも存在しないのだから、それらの迷いを全て捨て去ること。


135 :16:04/10/09 03:52:30 ID:/UzEQiwB
自分でかいといて言うのも何ですが、
>16でかいた仏陀の言葉について、
これは原始仏典でしたっけ?
それとも比較的後世の仏典でしたっけ?
誰かわかる人います?

136 :ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/10/09 10:21:30 ID:tVB5SvWx
仏典を読んでまとめられた文章だろうと思っていたが。>>135

「みずから知ったことおよび師(ブッダ)から教えられたことをたもって、解脱し、説明し、知らしめ、確立し、開明し、
分析し、闡明し、異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くよ
うに」ブッダ最後の旅
「道理を語らない人々は、善い人々ではない。情欲と怒りと迷妄とを捨てて、道理を語る人々は、善い人々なのである。」
サンユッタ・二カーヤU

>>偉大なる導師や教師の権威によっても、信じてはならない。

 それぞれの人が仏典から学ぶのがよいでしょう。道理を考えながら、思い込みの結論を出さず、客観的認識によって確
 証を得たならば、それは信じるに足るといえる。「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
 法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」他人をたよりとせず、仏典と、道理を考
 えながら、客観的認識によって自らをたよりとして得たものは、信じるに足りる。

「この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、自分の
主となる。」感興のことば
神などをたよりとせず、自分の身をよくととのえて、自己こそ自分の主であるとなることが大切。イエス・キリストの教え
でも、道理をよく考えてブッダの教えに反しないものは、参考となり取り入れるべきだろうが(同一見解があり信じるに足
るもの)、神への信仰よりも自分の身をよくととのえようとすることが肝心でしょう。
「ねがい求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、
―かれは何を怖れよう、何を欲しよう。」煩悩を捨てて、何をも怖れない者、ねがい求めない者になることが肝心なのです。
彼岸は怖れなく、人間の欲念によって、ねがい求めることもない。

137 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/10/13 22:55:14 ID:hN8yJjI2
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9さんの書き込みで、全ての書き込みに共感したわけではないが、
真理の片燐に触れられたような、気がした。
釈迦が言った。
妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。
人は、苦悩から解脱しないのである〜
世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが従属した。

ならば、この世に生まれる自分というのは、原罪、つまりこの世に生まれる自分(私)というのは
煩悩ひとつ(原罪)がこの世に現れているということなのか。
またこの世は、その煩悩により(その意識により)作り出されてる。
たとえ今の自分が大成したとして、煩悩を消し去ることができなければ、またこの世に違う自分、
煩悩のひとつとして生まれ、また来世では必ず成功するとは限らず、煩悩がある限り、この世に生まれ続ける限り、
この世での幸せ、煩悩を満たせないと、思い悩むことになり、
苦というものがついて回る。これじゃぁ、この世こそ地獄ではないか(苦笑)

ところで、素朴な言葉 ◆B2HNWyA9さん。あなたは本当にあることがきっかけで、
とても安定した自分。ニルブァーナの状態?を体験したのですか?
それはどういう状況のときに体験したのですか?
それはどういう感じでしたか?具体的に詳しく教えてくれませんか?
それは脳内が作った幻ではないといいきれますか?
もし、まだここ見てたらぜひとも答えてください。

人間いつか死ぬ。たとえ自分が大成して、どんなに富を得ようと
今の俺、今時分が認識している「私」という存在は、必ず死という結末を得、
この世からは消滅する。

僕が心に残っている、晩年、豊臣秀吉が残した句があります。

「露と落ち 露と消えにし 我身かな 浪速のことも 夢のまた夢」

138 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/16 09:12:20 ID:znVLJVtm
〜神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、
その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう〜
〜もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に「抜け出して海に植われ」と言ったとし
ても、その言葉どおりになるであろう〜(イエス)

 その言葉が真実であると知るのです。どんなこともできるという自信に満ちた境地。

〜これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、
この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている〜(イエス)
〜自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい〜(新約聖書)

 その言葉も真実であると知るのです。人にはなやみがある。しかし、それらのことがほんの僅か
 なことと感じられる境地。完全になれば、この世のなやみはないだろう。

〜主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人
に示しなさい〜何事も思い煩ってはならない〜人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、
あなたがたの心を思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう〜(新約聖書)

 その言葉の意味することも知るのです。人知ではとうてい測り知ることのできない平安の境地。
 この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)


139 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/16 09:13:08 ID:znVLJVtm
〜悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの
国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。」〜(イエス)
〜全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている〜(聖書)
〜世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のも
のが従属した〜世の人々は快楽に束縛されている。人々がくよくよ思慮するのは、逸れてよろめき歩く
ことである。妄執を断じ捨てることによって「ニルヴァーナ」と呼ばれるのである〜(サンユッタ・二
カーヤT)

 人は妄執に従属して、人知ではとうてい測り知ることのできない平安の境地である、この上なき
 最上の喜びの境地を失った。悪しき者の配下に入り、どんなこともできるという自信に満ちた境地
 を失い、悟りの境地を失い、くよくよ思慮する存在となり、なやむ存在となった。
 人は悪しき者の配下にはいり、現在の境地に至り、欲望を得た。自分の権威や栄華を求める存在と
 なった。それらに従う者は悪い者だから、いずれ裁かれても仕方が無いだろう。

〜神様、罪人のわたしをおゆるしください〜(イエス)懺悔によって悪しき者の配下に入った人の罪
はゆるされるだろう。神には何でもできるから、ゆるして下さる、そのように信じる。しかし、悪しき
者から得たことを正しいとすることで、人は知らず知らずのうちに、罪を重ねる。


140 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/16 09:13:54 ID:znVLJVtm
御言は、人が悪しき者の配下にはいる以前の状態になるように説かれたもの。悪しき者の配下にはいら
ないなら、悪い者とか良い者とか、正しい者とか正しくない者とか、人々を自分で評価することなく、
すべてをゆるす。〜自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか〜自分によくしてくれる
者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか〜悪しき者の配下にはいり自分を愛するようになった、
悪しき者の配下にはいり自分に何かしてほしいと思う者となった。―悪しき者の配下にはいらなかった
ならば、決して死を味わうことのない、永遠の命の境地をただ喜ぶ。敵を敵として認知することもない。
自分の物という愛着も一切ない。何も欲しいものはない。ただ、平安と安穏と安楽の境地を喜び、〜一
切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜(スッタニパータ)に通じる心を
喜ぶ。

だから、悪しき者の配下にはいった自己に囚われることなく、敵を憎むことなく、人に親切にしたり、人
の幸福を思い、人によくしてあげたり、何も当てにしないで貸してあげたり、御言を戒めとすることは、
悪しき者の配下にはいる以前の善の状態に、人の心と行いを正しく導く信仰であるのです。

宗教とは関係なく、普通の生活をして、永遠の命の境地を知ったが、悪しき者にまた従って、またもとの
普通の境地に戻った。人の死後も、それらが繰り返されると思われる。御言を戒めとせず、地上への思い
のまま生きるならば、霊体となって天国に生まれることもないと予測できる。


141 :名無しさん@3周年:04/10/18 04:37:44 ID:xJnZv67I
「スッタニパータを読む+ヴィパッサナーを実践する」
http://life6.2ch.net/test/read.cgi/psy/1071698342/l50
みんな、もう、ブッダ(釈尊)のことばへ帰ろう。

142 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/10/19 20:13:38 ID:PEjxYJoI
昔疑問に思っていたことがある。
あまり知られていない?が、カトリックの神父、シスターは結婚することを
禁じられている。もちろんSEXすることもだ。
旧約ではオナニーすらするなと、記述されているようだ。
子供心に愛し合っている男女が一緒になり、子供を作ることがなにが悪い。
悪いどころか、それは素晴らしいことではないか。
などと、疑問に、いや結婚を禁じるなどは、間違っているなどと思ったものだ。
また、ユダヤ教では断食の習慣があり、もちろんイスラム教でもある。
たしかカトリックの神父にもそういう習慣があったように聞いた覚えがあるが、
記憶が不確かで、確実にそうだとはいえない。
イエス自身は断食をした。
なぜ断食など意味のないことをするのかと、これも不思議に思ったものだ。

全ては煩悩を絶つがため。

素朴な言葉 さんの一連の書き込みで、疑問が解けたような気がするよ。

143 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/22 20:35:56 ID:era3+8Es
〜情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである〜(イエス)

 人は悪しき者の配下にはいり、情欲をいだくようになった。地上とは別の永遠の命の世界では情欲を抱く
 こともない。

〜男子は婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、
婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。夫は妻にその分を果し、妻も同様に夫にその分を果たすべきである〜
(新約聖書)

 しかし、妻を持たない、婦人にふれないから、自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちはもっと
 悪い。

〜パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、
姦淫をする者ではなく〜」〜しかし、このパリサイ人は、神に義とされなかった。

 「神様、罪人のわたしをおゆるしください」とする人が神に義とされた。自分は欲求を人より抑えている
 から、世間の人々より、正しい人間だと自任するほうが悪い思いだと

144 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/22 20:36:47 ID:era3+8Es
〜「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまう
もの、人間の規定や教えによっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そ
んと、からだの苦行をともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままの肉欲を防ぐのに、
なんの役にも立つものではない〜(新約聖書)

 悪しき者(妄執)に従い人は欲求を得たが、ほしいままの肉欲に従い生きることが悪いことだと教えるもの
 であって、欲求を断じること、妄執を滅ぼす修行を行えというのは人間の教えによるものだと。

〜欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる〜快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる〜人間のうちに
ある諸の欲望は、常住に存在しているのではない。欲望の主体は無常なるものとして存在している、束縛され
ているところのものを捨て去ったならば、死の領域は迫って来ないし、さらに次の迷いの生存を受けることも
ない〜(ヴダーナヴァルガ ブッダ)

〜肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである〜
〜愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされ
ていないからである〜(新約聖書)

 何も恐れることのない平安の境地があり、欲情や快楽など肉への刺激を喜ぶことにより、人はその境地から
 離れていく。自分を正しい者だと自任するために、欲求を制するのではなくて、平安の境地から離れ、懲ら
 しめが伴わないためも、それらの欲求を制する。〜そして「やすかれ」と言われた〜御言は、人に安らぎを
 与えるためでもある。

145 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/10/22 21:57:44 ID:fy94q7BG
そう言えばコーランにも、神はカトリックの者達が
厳しい戒律を強いているのをみて
「あれは私がそうしろと命じた(望んだ)ものではない」
「彼らは勝手に厳しい戒律を引き、それを守っている」
なんていう意味の文章を見たような気がする。
姦淫はするな。だから厳しい戒律を守って「我慢」するのとは
違うのだろう。イエスの言った
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」
とはそう言う事なんだろう。

世間では修行と称して、苦行を行っている者達がいるようだが、
そんなことしたところで、煩悩など落ちるはずもなく、
単に苦しいことに我慢し、我慢できたにすぎないのではないか?
それで解脱したとは本末転倒。はなはだおかしい。

146 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/10/22 22:05:37 ID:fy94q7BG
よく他の宗教者同士、自分のところが正しい。あそこは間違っている。
仏教徒は他の宗教者を「外道」と称し、下げずみ、
キリスト教徒同士カトリックとプロテスタントの争いなどみるにつけ、
何か違うだろ。と思える。

宗教団体に所属すること自体、そんなに重要なことではないのではない。
そんなものにこだわること自体、偶像崇拝じゃないか。

真理に到達したものが、その教えを広め、後世に残したとしても、
後のもの、つまりこの世の人、煩悩に囚われた人が
引き継いだところで、必ず堕落する。
この世は人の煩悩がかけめぐり、人を支配する。人の煩悩とはすさまじい。

147 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/10/22 22:18:03 ID:fy94q7BG
なんてな事書きながらも、実は半信半疑な俺。
なぜ信じられないかは、俺は「それ」をみた事、体験した事がないからだ。
現に煩悩に囚われ、そこから脱することもできない。
そこで素朴な言葉さん。
まえにも書き込んだが、あなたは、その平安の境地はどういう状態のときに
体験したんですが?それはどういう体験でしたか?
詳しく教えてくれませんか?

たとえ、その日給料日で、その日に無断欠勤すれば懲戒解雇になり、
給料ももらえない事になろうとも、その日宝くじを買えば、高額当選するのが
確実なのがわかれば、誰が職を失おうと、
たとえ給料を棒に振ろうとも、当日欠勤をし、宝くじを買いにいかない者がいようか・・・・

て、少し例えが悪いか・・・・こういう例えしかできないのも、俺が煩悩に塗れている
証拠だーねぃ。

148 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/23 11:18:48 ID:abOHuALR
普通の生活をしていて、突然体験した。人間は悪しき者に従って、今現在の人間の思いに至っていると知った。
イエス・キリストの言う神とは、永遠の命の境地、天国での共通意思、天国での共通の思いであると断定できる。
悪しき者に従った人間が、この思いいが全部なくなり、人間が消滅して霊となって、初めてその神を知るのだから、
神はこのようだと説明し、理解の上で知り近づくことはできない。

イエス・キリストは、神々だったのではないか。〜神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたど
って人を造り〜」〜創世記 〜神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、父が聖別して、世につか
わされた者が、「わたしは神の子である」と言ったからとて〜

そして、イエス・キリストがこの世を創造した。〜世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた〜
何でもできる神が、人が悪しき者にも従えるようにしたのは、この世で人々の希望を叶えるためであると思う。
そして、悪しき者に従う以前の状態の御言を人々が善として受け入れ暮らすこと、〜何事でも人々からしてほしい
と望むことは、人々にもそのとおりにせよ〜という律法に従うこと。悪しき者に従わないならば、人々からしてほ
しいことすらない。悪しき者に従って、初めて欲求が生まれた。清浄な永遠の命の国では、人が抱くような欲求は
ない。

聖書には、わからないこともあるが、御言は天国での共通意思。妄執を滅ぼすために修行するのではなくて、その
律法に従うことが、創造主の意向であると思う。その律法に従わず、自分の欲求のみを人々に押し付けるならば、
人は裁かれる。

149 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/23 11:20:03 ID:abOHuALR
その平安の境地とは、〜もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう〜
死なないと感じられる境地。死を意識しない境地。完全に妄執を滅ぼした人は、決して死を味わうことがない。
恐れがなくなる。勇気があり、〜この桑の木に、「抜け出して海に植われ」と言ったとしても、その言葉どおりに
なるであろう〜なんでもできるという境地。〜世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。この身は泡沫のごとしと見よ。この身はかげろう
のごとしと見よ。身体をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない〜この世のなやみは、ほんの僅かな
ことと感じられる境地。「全ての存在は水の泡か、陽炎のごとし。一切は虚妄である。」そして、自分の思い煩い
も一切なくなる。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安の境地。〜喜びなさい。繰り返して言うが喜
びなさい〜この上なき最上の喜びの境地。人は、修行によらず、地上のものに心を引かれることなく、主にあって、
信仰の喜びを保つならば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安に近づいている。全てを忘れて、信
仰をする時、人は悪しき者から離れ、清浄な境地に近づいている。〜林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、
大いにみずから満足すべきである〜世間から離れ、自然の中で全てを忘れて喜ぶような境地。〜あなたがたも慈悲
深い者となれ〜慈しみの境地。

この世から遠ざかり離れるような境地。〜ここに遠ざかり離れることにもとづき〜


150 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/24 11:16:23 ID:oX6gffM0
◎その平安の境地を知らないで、人が勝手に作ってしまう宗教は偶像礼拝になってしまう。知れば、それだからそ
 の教えがあるとわかるのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安の境地、その世界に近づくよう言葉で教えること。その国を
 思い信仰すること。人は悪い者に従ったから、信仰があること。

悪い者に従ってないのに、宗教があるとするならば、信仰をして御利益を求めるものとなる。人間(地上)とは別
の素晴らしい永遠の命の世界があって、このような悪に従った人間の思いが消滅するならば、そこに入ること。

■悪に従い、現れた心を戒める言葉が正しい教えである。
■信仰をして、永遠の命の世界に心が近づくようにするのが正しい教えである。

〜何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな〜(イエス)
〜「わたしは何を食べようか」「わたしはどこで食べようか」「(昨夜)わたしは眠りづらかった」「今夜わたし
はどこで寝ようか」―家を捨てて道を学ぶ人は、これらの四つの憂いに導く思慮を抑制せよ〜(ブッダ)

 食べよう、飲もう、寝よう、何を着よう、それらは悪に従って現れた思い。永遠の命の世界にはない。この言葉
 は大事な戒めである。


151 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/24 11:17:27 ID:oX6gffM0
〜あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だ
けで十分である〜(イエス)
〜かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在
のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである〜(ブッダ)

 悪しき者に従い、自分の未来の権威と栄華、この世のものへの獲得のためにあくせく貪り求めるようになった。
 世間から、人々から何かを獲得しようとする心を得た。悪しき者から、この世のものを喜ぶ心を得ると同時に、
 貪り得る心を得た。永遠の命の世界には、そのような心はない。
 〜あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない〜(新約聖書)
 もし、人々からしてほしいと望む欲求があるならば、〜だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人
 々にもそのとおりにせよ〜(イエス)悪しき者に従わないように、しかし、人々がそれを行うならば必要なもの
 が得られる教えである。
 もし、世間から利益を得たい欲求があるならば、それだけ世間に利益を与える者となれ、しかし、所有物が少な
 いからといって、地位もなく名誉がないからといって、悲しむことは何もない。より、神には愛され、永遠の喜
 びの世界には近づいている。

 〜一切の形成されたものは苦しみである〜(ブッダ)そのように、神はこの世を苦しみとされた。人が、無所有
 を望み喜ぶことができるならば、よりいっそう神には愛されている。

152 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/24 11:19:11 ID:oX6gffM0
〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜(ブッダ)
〜敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜(イエス)

 敵を敵と認知すること、憎しみ怨みなどは、悪しき者に従い得たもの。永遠の命の世界にはない。

〜あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな〜また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろ
うか〜(イエス)
〜人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ〜(ブッダ)

 永遠の命の世界には、自分のものという執着は一切ない。だから、返してもらうという心は永遠の命に反する。
 自分のものという愛着は、人が悪しき者に従って得たもの。争いは一切なく、所有物に対する奪い合いは、完全
 に神の意向に反するもの。人間が必要な物を得て、それに対する奪い合いが起きるならば、逆に人も不幸であり、
 神が決して望まれない行いである。


153 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/24 11:23:35 ID:WS5i+EIE
〜あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何もあてにしないで貸してやれ〜いと高き者は、恩を知らぬ
者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者とな
れ〜(イエス)
〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜あたかも、母が己が独り子を命を賭けて
も護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし〜(ブ
ッダ)

 人は自分のことを考える、自分を愛する、自分を愛するものを愛する、これは悪しき者に従って得たもの。この
 世から遠ざかり離れた永遠の命の境地は、悪い者、良い者、正しい者、正しくない者などの識別もなく、上に、
 下に、また横に、全てを慈しむ。人は、悪しき者に従って、悪い、良い、正しい、正しくないという識別を得た。
 永遠の命の世界は、正しいとか、正しくないとか、良い悪いなどを判断することはない。誰でもゆるし、愛せと
 は永遠の命の世界からの戒めの教えです。

〜あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です〜麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、
あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します〜(スッタ
二パータ)
〜天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下
さるからである〜あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全となりなさい〜(イエス)

 非我なるものを我と思いなし、人を善悪で判断してはならない。特に、自分の意向に適った者、適わない者への
 評価や、好む好まないの判断は、愛し続けなければならない隣人までも愛せなくなる。御言を戒めとして受け入
 れることは、重要なことです。また、見返りなく人に親切にしたり、人の幸福を思うことは、永遠の命に近づい
 ているのです。そして、「私はこのようなことをしました」と自分を義人だと自任して神に報告せずとも、人を
 幸福にしたことを自分自身が喜べば、人は既に神に近づいているのです。

154 :名無しさん@3周年:04/10/24 15:38:28 ID:pl9UQ5bF
キリスト教は、いと高き者という神が存在する。
その存在は、力がありながら、この世の弱者に災難を与え、
十分豊かに暮らしている金持ちには、災難を加えない。
なぜなら、頑丈な家に住んでいる人々は、災難にも耐えられる
からだ。
慈悲深い神は存在しない。

155 :名無しさん@3周年:04/10/24 18:02:35 ID:HLJc4gbH
外道は駄目だな。新潟県の地震を見ても、世界を見ても、神が存在すると
したら、冷酷そのもの。

156 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :04/10/24 18:36:36 ID:86556pFp
素朴な言葉 さん。あなたの書き込む内容には、なにかくるものがある
ところであなたは、永遠の命の世界をみた(体験した)と言った。
”それ”は単に、この世においての、自分の意識革命的なものなのか、
それともこの世にあるものではなく、その先にあるものなのか。教えてくれませんか。


157 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/25 20:33:11 ID:BFoFIut/
>>156
>>真の神の接近は、この上ない健康の実感と来世の前味とをあとに残すのである。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安は、この世のものではない。来世の前味であり、永遠の命の世
界のもの。

しかし、全世界は自分も含めて、悪しき者の配下にあることを知った。だから、この身から悪を出さないように意
識的に思いと行いとを正さないといけないと思った。

神は人が思うような人格神や偶像で現わされるものではなく、永遠の命の世界のことをも言う。悪しき者の配下に
入ったこの身が消滅して、霊となって生まれ変わり、永遠の命の世界に入って初めて神を完全に知る。
それは、〜神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、そ
の言ったことは必ず成ると〜その神は、この上なき最上の喜びの境地とともに、どのようなこともできるという境
地もあり、神はニルヴァーナとともに知るということがわかる。

〜不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである〜
〜偶像なるものは実際は存在しないこと〜人間が想像するような人間的な神ではなく、偶像で現される神ではない。
永遠の命の領域で知る神であり、地上の思いが完全に消滅した時、神を完全に知る。

例えば、何を食べよう、何を着ようなどと思い煩っている時、神と永遠の命から遠く離れ、悪魔の領域に深く入り、
悪を思っている。この人は良い人だから、正しい人だから、良いはからいをするという人間的な神ではない。地上
の者全てが悪しき者の配下なのである。たとえ自分に不幸なことが起きたとしても、神は存在しないとは思わない。
永遠の命の国は存在するのだから。


158 :名無しさん@3周年:04/10/28 00:49:25 ID:Tm9E+tbX
神の表現は不適切。仏教は神とは言わないから適切。
神と言えば人格があると誰でも思うだろ。
地震やその他の災害が、神の仕業であると人は思って
しまう。

159 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/29 19:46:30 ID:8Fw754ij
人間がサタンに従って、その人間と同じような神を想像してしまう。それが愚かなこと、その神に悔い改めることなく、
願い求めること、そのことが貪欲であると聖書では言っているのでしょう。

〜彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せた
のである〜
〜偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている〜
〜だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほ
かならない〜
〜肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、泥酔、宴楽、
および、そのたぐいである〜(新約聖書)

 不品行や汚れ、情欲や悪欲と並び、偶像礼拝も肉の働きであると。それはあたりまえのことでしょう。人間が想定
 する人格神や、その他諸々の偶像で描き出されるような神を思い、礼拝することは自分自身の貪欲のためであり、
 その偶像を礼拝しない者より、礼拝する者はもっと何かを求めている。また、サタンに従った人間と同じような感情
 を持ち、同じような心であり、この人間と同じような思考をしている神を想定するなら、サタンを神としていること
 となり、永遠の命から全く離れる。

理由はどうあれ、とにかく間違った神を信じている。それらの神を信じても、人はサタンから離れず、善にはならない。



160 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/29 19:47:30 ID:8Fw754ij
誤りのない正確な神とはどういう存在か。人が信じてサタンから離れるのはどういう神か。善い思いが抱ける真実の神
はどういう存在か。
〜イエスはさまざまな病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、答えて言わ
れた〜

■盲人は見え、足なえは歩き、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり・・・・・・それらの奇跡を神のわざで行われた、
■多くの財産のある人に、貧しい人々に分けてあげなさいと言われた

 これが天の父の姿である。〜万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また唯一の主イエス・キリス
 トのみがいますのである〜
神は永遠の命の国で、全ての存在を病もなく、苦しむことなく、困ることなく、富む者もなく、貧しくもなく、平等に
幸福にされる。

そして、〜主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい〜その世界を喜んでいるではないか。罪なき
存在は、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安の世界で、全てを幸福にされた神とその世界を喜んでいる。
信じて善となる唯一の神は、このような神である。地を思うことはサタンからであるが、天を思う心はサタンに囚われ
ない。罪なき永遠の命の存在は、常に天を思っている。

〜牡牛のように結縛を断ち、くさい臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたくしはもはや母胎に入ることはない
であろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ〜(ブッダ)神は、サタンに従い、欲望の喜びもあり、
しかし、災いもあるこの地より、全てが幸福となる天に生まれることを望まれている。


161 :名無しさん@3周年:04/10/30 10:42:57 ID:GVueYNJH
神はこの世界の創造主ではなかったのか。時には冷酷、残忍であり、自然災害
も神の意思と考えないのか。神を善いとか、愛とか、決め付けようとするキリ
ストの論理は、ちぐはぐで無理がある。創造主と永遠に生まれることを別に考
えて、悟りを目指す仏教には無理がない。そもそも仏教には創造主という発想
がないから、支配主(創造主)のために布教して、戦争を起こすことがない。
キリスト教には、創造主が存在し、その絶対的な支配者が残忍な側面を現すこ
とがあるから、その創造主のためなら戦争を起こすということがありえるのだ。
キリスト教は不完全であり、この世界から争いをなくすことはできない。否、
むしろ神のためといって、戦争を起こす要因となるのだ。



162 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/31 00:57:11 ID:yNr2pvWf
もし、創造主が存在するならば、何を望まれているか。慈悲深い神が存在するならば、何を望むか。
世の初めから人は神のもので満足せず、神のように賢くなるという貪欲に囚われた。人は決して死を味わうことのない
永遠の命の境地と、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安の境地、至上の喜びの境地、一切苦のない境地、
この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)を失った。人は地上で苦悩を受ける存在となった。
ブッダが一切皆苦であると言っているように、この世は苦しみである。人は罪を犯したがために苦悩の存在となった。
慈悲深い神が一切苦悩のない至上の喜びの国を知っているのに、永遠の命の国を知っているのに、人間のような欲望が
ないが、神のものを喜び何でも叶う世界があると知っているのに、地上を喜んで暮らせと言うだろうか。罪人が望んで
この世界を愛しく思っている。

ブッダはそのことを知って、神通力で神と対話し、神の望みを行った。人の手で作られた一切の所有物を捨て去り、妄
執を滅ぼす修行を行い、神が創造された自然の中で満足し安楽に暮らすことを行った。
〜われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地
のすべての這うものとを治めさせよう〜(創世記)
ブッダは慈悲の者となり、〜いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも〜一切の生きとし生け
るものは、幸せであれ〜(スッタニパータ)神の造られた生き物全てを慈しみ、幸せを思い治めよと。

つまり、ブッダは神に忠実であり、世の初めに忠実となるよう修行を行った。そして永遠の命のもので満足する者とな
り、神の望み通り、また自分で得たこの上なき最上の喜びの境地に従って、二度とこの地上に生まれることがない存在
となったのだ。ブッダはこの上なき最上の喜びの境地を知って、自らも進んで安らぎの国を望んだ。


163 :素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :04/10/31 00:57:54 ID:yNr2pvWf
神の望みと、人の望みは正反対であると推定できる。人の望みから神を推定すると、悪魔を信じることとなる。かとい
って、ブッダのように一切の所有物を捨て去り、自然の中で満足して暮らすことはできない。悪いものに従って、現在
の通常の境地に戻り、人の手で作られたものを必要とし暮らさねばならないようになったが、悪いものに従わず、永遠
の命の境地のままならば、その境地のみを喜んでいるだろう。地上のものに心を引かれることはない。
現在の私たちは、神に対話を求めるならば「神様、罪人のわたしをおゆるしください」しかないだろう。少し善いこと
をしたからといって、「私は善いことをした」といって意識し罪を感じてしまっている。悪いことも行えないが、善い
ことを行っても、「ふつつかな自分だが、すべき事をしたに過ぎない」と、自分は愚かだが、あたりまえのことをした
と感じることで悪に従って生じたものを意識しない。

〜生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない〜自らの命を絶つということは、悪い心(悪魔)に従う
ことで、罪人が更に悪いものに従って、罪を重ねて自分の命を絶つならば、死後は取り返しのつかないこととなる。
〜他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると
称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている〜生存の
貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に悟りがたい〜(スッタ
二パータ)
〜自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう〜(イエス)
自己の断滅の妄執に囚われることは、地獄に生まれる要因だが、この世で自分の命を憎み、生存の妄執をも捨て去った
者は、永遠の命の国に一致し、死後も永遠の命に至る。

在家者にとってイエス・キリストの言葉は、人が罪から生じたものを思うことなく、永遠の命に至る道を正確に教えて
いる。人が世間にいながら、罪から生じたものを思うことなく、暮らすことができる。



164 :実行委員長:04/11/06 22:25:30 ID:sbxaATJQ
聖者になる方法として、上顎に舌をつけなさい。とあります。
わたしは、聖者になりました。

165 :名無しさん@3周年:04/11/20 14:50:38 ID:IXcywXPy
あたま痛くなるスレだなw

166 :名無しさん@3周年:04/12/08 00:37:35 ID:aIUXf9uj
阿含宗桐山教祖の逮捕歴

昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署

十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署

二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課

二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪


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