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阿含宗という宗教72

257 :名無しさん@3周年:04/11/09 12:43:15 ID:+JdQQJMf
「信解円通」ということです。
信解円通して方(まさ)に行の本(もと)になる(方便品第三)
信じるだけじゃだめなんだ。信じると同時に解(げ)されなければいけないのだ、というのです。
信と解と二つそろって、はじめて完全に行となるという。信は、信心、信仰ですね。
解というのは、知解(ちげ)、理解(りげ)で、知性で解くのが知解、理性で解くのが理解です。
信心という感情だけでありがたがっていたのではだめで、知性、理性を働かせて、どこまでも
解いてゆかねばならぬのだ。
「一九九九年カルマと霊障からの脱出」83頁

信じるということがあっても、それを十分に理解する、すっかり意味がわかるということがなくては、
ただ一応わかったという程度で信じているならば、無明を増長するといって、信じることが結局
迷いを増長するもとになる。世間でよくいう「鰯の頭も信心から」というほど極端でなくても、
ほんとうに強い深い信仰を持つためには、おなじように深い理解がなければならない。
「説法六十心」221頁

たしかに宗教は「信」によっ
て成り立つもりであるけれども、なんでも頭から信じりゃいいというものではない。
われわれには知性と理性というものがある。正しく「信」をゆるぎなく持つためには、
その知性と理性による洗礼をうけなければならない。
知性と理性がなっとくしなけれ
ば、感情だけの「信」であって、なにかあるとすぐら揺らいでしまう恐れがある。
経典に、
信解円通して方に行の本となる
ということばがある。
解とは「理解」と「知解」である。理性による理解(なっとく)と、知性による
(なっとく)である。その解と信が円通、すなわちすき間なくぴったりそろって、
じめて、ほんとうの行の基礎が出来るのだ、というのである。
われわれは、宗教にたいして、論理で証明することなど要求しない。しかし、論理
で説明できるものでなければ、現代人はなっとくしないのではないか?
「人は輪廻転生するか」、211頁

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